最後のサーモン・フィッシャー
第一章
1-1
八月も終わりの頃、ル・モンド紙のトップを飾る二つのニュース記事にフランス国民は釘づけになった。一つはパリの洪水。集中豪雨がもたらした洪水によって、千二百年前の建物が破壊されたとその記事は伝えていた。もう一つは、鯨のニュースだった。その見出しは、「鉄の鯨、漁船に衝突」となっていた。
パリを発つ前夜、真はギリー、スコットランドではフィッシング・ガイドのことをギリーと呼ぶ、のゴッドフリーに電話を入れた。いつもは日本から天気の確認の電話を入れるのだが、その年は撮影の仕事がちょうど八月末に終わるために、直接パリからロンドンに入ることにしたからだ。翌日の夕方にはコテジに着いているのだからそのときには分かることなのに、天候のことはどうしても出発前に知りたくなってしまう。仕事で出張するときには、心配したって仕方ない、行ってから考えようと思うが、釣りとなると気になってしまう。パリとロンドンの時差はたったの一時間だから、相手の時間をそんなに気にしなくても済む。電話にはゴッドフリーが直接出た。
「ハイ、シン。そろそろ電話がある頃だと思ってたよ」
「ハハハ、そうかい、ゴッドフリー。で、どうなんだ天気は」
「駄目だ。全く雨が降ってない」
「おいおい、また夜釣りか。サーモンは駄目なのか」
「この分だとそうだ。シー・トラウトはまずまずなんだが」
「シー・トラウトはもういいよ。今年こそサーモンを上げたいんだ」
「分かってるよ、それは。この天気はシェイムだ。だが、シン、天気だけはどうにもならない」
スコットランド人のプライドの高さとこだわりには定評があるところだが、ギリーのそれは異常な程で、完璧なコンディションでゲストに釣り場を提供できないときには、彼らに「恥」という表現を取らせる。
「気が重いなあ。ああ、ゴッドフリー、今フランスで鉄の鯨がニュースになってるの、知ってるか」
「ああ、あれは、鯨じゃない。レッド・サブマリンだ」
「レッド・サブマリン?」
「そうだ。夜中に北海を北上していくロシアの潜水艦だ」
「潜水艦なら潜って航行するんじゃないのか」
「潜れなくなった奴だ。バルチック艦隊で使えなくなった奴を北極海にでも捨てに行ってるんだろ、きっと」
「いい話じゃないな、それは」
「ああ、漁師たちは海の汚染を気にし始めてる」
「サーモンは大丈夫か」
「心配するな。サーモンはロシアの連中だって大好きなんだ。自分たちの命にかかわるようなことはしやしないさ」
「そう願いたいもんだな」
「レッド・サブマリンは日本でも話題になってるのか」
「いや、実は今パリにいるんだ」
「ホッホーッ、そうか。じゃ、直ぐだな」
「そうだ。でも、夕方の同じシャトルでいつもどおり入るから、迎えよろしく頼むよ」
「分かった。ドーンと替わろうか」
「いや、いいよ。赤ん坊で大変だろ。行ってからゆっくり話すよ。よろしく伝えてくれ」
「分かった。じゃ、明日いつもの時間に行って待ってる」
「ああ、頼んだよ、じゃ」
一本の電話で真の気持ちは切り替わる。現地の天気の問い合わせは、釣り師が釣り師になるための儀式でもある。出発の準備をする真の気持ちは昂っていた。
釣り師は逃げる。現実の全ての暮らしから。釣りは間違いなく現実逃避の一つの形態である。が、現実というものが世界中にたった一つしかないなどということがありえないように、釣りをしている状態という現実もまた一つの現実であることに違いはない。ただ、時間の流れは日常の現実の流れとは全くことなっていると認識できる。多分、釣りをしている釣り師の大脳からは、β波ではなくα波が検出されることだろう。釣り師は釣りながら眠っている状態にある。釣り師は釣りながら眠るということで現実から逃避しているのだ。そして二つの現実を往復することを知ってしまった男を釣り師と呼ぶのである。
釣り師は、魚を追っているのではない。釣り師が追っているのは、自分の夢見た理想である。釣り師は、釣りをしながら、釣りをしている自分自身を強く認識する。釣り師は、釣りをしながら、釣りをしている自分自身の後ろ姿を追っているのだ。
雨に降られ、風に吹かれ、水に押し流されながら、何時間もロッドを振り続けることができるのは、そこにいる自分自身の肉体的存在を超える強い意志の力によるのだろうか。それとも、別の何者かの意志によってつき動かされているのだろうか。釣りをしているときの釣り師は、きっと、トランス状態にあるのだろう。
そのときの釣り師の五感は、全て水中のフライという一点に集中されている。まるで体の神経全部が体の前面に移動してしまって、前面全てがパラボラ・アンテナになってしまったように、水中から送られてくる微かな信号を待ち受ける。
そして、前面に集中してしまった神経が、眼前に自分の背中を捉えることを可能にするのだ。もしくは、離脱した幽体としての自分自身を少し手前に見ているのかも知れない。釣り下りながら、川の中を下流に向かって一歩下がるとき、釣り師の気持ちはすでに体よりも先に一歩下がっている。
この体の遅れが、先へ先へと釣り師を止めどなく導いていくのだ。
先にいる自分を、理想の自分を、在るべき自分を追うように、それまでの現実の自分の人生をやり直すように、釣り師は自分の影を追って釣り下っていく。
限りなきこの繰り返しの後、サーモンとの邂逅という人生の打ち上げ花火に出会えるのだ。
1-2
真が広告の仕事を始めてからもう二十年になる。駆け出しの五年は別にしても、もう十五年も撮影の仕事で世界中を飛び回ったことになる。二十五から三十五の十年間は何をしたか全く覚えていない。三十五から四十までは自分でも納得できる仕事ができた。
だが、四十を過ぎてからの男の人生は二分されることになる。楽しい人生とそうでない人生との二つに。生を実感できる人生とそうでない人生との二つに。
その選択のときが何時やってくるのか、何時だったのかも気づくこともないのに、人は、そのとき必ず一つを選択してそれからの人生を生きることになる。今にして思えば、真にとっての選択肢もあのとき二つあった。
それは全くの偶然だったのだが、五年前のことだった。ゴルフ・ウェアのコマーシャル撮影をロンドン郊外で行うことになって、二月に真たちクルーはイギリスに向かった。だが、そのとき同行していたディレクターの思いつきから、急遽雪の上で撮影することになったのだ。そのときの経緯はもう忘れてしまったが、これを聞いて慌てたイギリスの現地コーディネーターの顔だけは忘れられない。
彼は、「日本人は現地に来てからコンテを考えるのか!」
と、無駄になってしまった真との事前ミーティングに費やした労力を悔やんだ。
が、その年のロンドンは暖冬の影響で雪が降っていなかったために、結局、雪を求めてスコットランドにまで脚を伸ばすことになった。
だが、スコットランドとはいえ、例年にない暖かさのために雪はスキー場にしかなかった。そこで、ふと、このディレクターはゴルフ発祥の地セント・アンドリュースがスコットランドにあることを思い出し、何のことはない観光コマーシャルのような撮影をして帰国したのだった。ところがこのアクシデントが、真にとっては決定的な出会いを演出することになった。
撮影も終わり、最後の夜のディナーに登場した一尾の魚がそれだった。
大きな銀皿に乗せられた、まるでサーモンのような魚。銀色に輝く魚体は、かつて真が一度も見たことのない魚だった。その魚を宿泊先の主人自らが切り分けてくれ、そのうちのほんの一切れが真の皿に乗せられた。
その魚は、親戚でギリーをしている変わり者が釣ったものだとその主人は言った。その変わり者というのがゴッドフリーだった。その魚はブラウン・トラウトの降海型で、シー・トラウトというのだとその主人が教えてくれた。真もブラウン・トラウトは知っていた。茶色の魚体にルビーのような朱点を散りばめた、シューベルトの楽曲「鱒」としても知られる、ヨーロッパではフライ・フィッシングの対象魚として真先にあげられる魚だ。
だが、その魚は、ブラウン・トラウトとは余りにもかけ離れた姿形をしていた。第一、大きさが違う。海で育つと同じ鱒でもこうも違うものなのか、という感慨は同時に釣りたいという気持ちに変わっていった。
主人に尋ねるとその魚は普通の川では釣ることは出来ないということだった。その魚が海から遡上してくる特別な川があり、その川は、一年前には予約で一杯になるということだった。
主人はゴッドフリーに電話を入れて、空きがないかどうか確認してくれたがあるはずはなかった。その川の解禁は二月、つまりその年の釣期はすでに始まってしまっていたのだから。来年のために予約しておいたらどうだ、もし来年の空きができたら、クリスマスまでには連絡が来るはずだからという主人の言葉どおりに予約した。
だが、クリスマスまでには何の連絡もなかった。あるはずがなかった。
何故なら、一週間毎にレンタルされる川の予約は、釣り終えると直ぐに翌年の予約を受け付ける。そして、そのときに、ノーという返事をするフィッシャーマンは一人もいないのだ。空きが出来るということは、そのフィッシャーマンが川に来られなくなる理由が発生した場合の突然のキャンセルか、そのフィッシャーマンが来ようにも来られない状態になること、つまりこの世に存在しなくなるまで待つしかないのだった。
それが分かったのは翌年の五月、メイ・フライの舞う頃、真がこの国を釣りのためだけに訪れたときのことだった。
当然その川には入ることすら許されなかったが、ブラウン・トラウト・フィッシングを堪能することが出来た。それはそれで楽しいことには変わりなかった。
フライ・フィッシングの故郷での釣りは、真にそれまでに味わったことのなかった満足感を与えてくれたし、日本での釣りにも広告の仕事にも燃えきれないものを感じ始めていた真にとって、フライ・フィッシングの原点を再確認させてくれる釣行だったし、別の人生を選ぶきっかけでもあったのだと思う。
そして勿論、その年にも翌年のための予約を入れることを真は忘れなかった。
いつまで待てばいいのかすら分からなかった。
しかし、予約を入れ続けなければ川に入ることは出来ないのだ。そして、その年のクリスマスの前にゴッドフリーから大きな封筒が届いた。
翌年六月のシー・トラウト・フィッシングの案内だった。添えられていたゴッドフリーの手紙を読んで、釣りの腕前を試されていたことが分かった。
空きを待っていたフィッシャーマンは他にもいたのだが、日本のフライ・フィッシャーマンにしては、ちゃんとフライで魚を釣ることのできる男であると思ったからだ、とその手紙には書いてあった。
そして、川に入れるのは翌年だけのことで、その次の年は難しいだろうと添えてあった。
その年も雨の少ない年だった。真は、殆ど干上がってしまったような川での夜釣りを強いられた。だが、真は釣った。シー・トラウトを三尾釣った。ゴッドフリーは、それを見て翌年にまた来る気があるかどうかを真に尋ねた。
「誰もノーと言う者はいないんだろ」
それが、真の答えだった。勿論、ゴッドフリーは
「保証はできないが」
と、つけ加えることを忘れなかった。
サーモンが同じ川に上ってくるのを知ったのはこのときだった。どうせ保証できないのなら、この際サーモン・フィッシングを予約しない手はない、とそのとき真は思った。真のこの厚かましい申し出に、ゴッドフリーは呆れ顔で「十年かかってもいいか」と言った。結局、その次の年にはサーモン・リバーは空かず、シー・トラウトを釣るしかなかった。だが、その翌年のクリスマスの頃、またゴッドフリーから大きな封筒が届いた。サーモン・フィッシングの案内だった。同封された手紙には、君は運が良すぎると書いてあった。
九月の第一週目という理想的な週だった。だが、その翌年、勇んで出かけたサーモン・フィッシングは見事に裏切られた。前年とは三月もズレているにもかかわらず、渇水続きの川はサーモンの遡上を妨げ、川に留まり過ぎて銀色の魚体を黒く変色させたシー・トラウトが釣れただけだった。
そして今年、同じ週が予約してある。真が初めてシー・トラウトを見てからすでに五年が経っていた。
大西洋の鮭であるアトランティック・サーモンは、学名をサルモ・サラといい、サーモンの語源になっている鮭である。
フライ・フィッシングはこの魚を釣るために発達したといっても過言ではない。そして、このアトランティック・サーモンを釣るためだけに考案されたクラシック・サーモン・フライの殆どは、すでに三百年前にはほぼ出揃っていたといわれている。
そもそもフライというのは何かの虫や小魚を模して作られるのだが、このサーモン・フライだけは何にも似ていない。何にも似ていないにもかかわらず、鳥や獣毛などのマテリアルによって作られた魅惑的なカラーリングとそのシェイプが、サーモンだけではなく、釣り人をも引きつけずにはおかない美しさを持っている。だが、スコットランドのサーモン・フィッシングの永い歴史は、門外漢が、ただ川に入ることすらも容易ではないものにしてしまっていた。
真は、八年間も川が空くのを待ち続けた男がいるという話をゴッドフリーから聞いていた。それにもかかわらず、真はサーモン・リバーを手にしたのだった。今年こそは、サーモンを釣りたい。それだというのに、雨が降っていないという。パリは大雨だというのに、ドーバーを隔てただけのスコットランドには雨が降っていないという。ホテルの窓からは大粒の雨のカーテンの向こうのパリの夜景の中に浮かぶエッフェル塔の明かりが見えていた。真はシャワーを浴び、裸のままベッドに入ると直ぐに眠りについた。
1-3
夢は見なかったようだった。
翌朝、真は快適な目覚めを迎えた。気持ちはすでに釣り師に変わっていた。パリでの最後の朝食を真はルーム・サービスでとった。パリの不味いコーヒーにホット・ミルクを注ぎ、カフェ・オーレをつくり、クロワッサンにバターとオレンジ・マーマレードを塗って口に運ぶと、直ぐに真は身支度を始めた。早めにロンドンに行ってハーディを覗くのもいい。欲しい釣り道具があるわけではないが、釣り具屋は時間を持て余した釣り師が落ちつく場所としては他に選ぶ所がないといえるだろう。
だが、真はロンドンには降りなかった。そのままシャトルに乗り継ぎ、エディンバラまで飛んだ。そして、エディンバラ・エアポートからタクシーに乗り、エディンバラ・ステーションに向かった。インター・シティでゴッドフリーの家まで行こうと思いついたからだ。グラスゴーとエディンバラの間には国鉄が走っているのだ。早めに行ってランチを一緒に食べるのも悪くない。
駅に着くと、とっくに出ているはずの急行がまだ着いていなかった。いつものようにブリティッシュ・レイルは遅れていた。
三十分程待つと電車はやって来た。そして、真が乗り込むと遅れの理由説明もなく電車は発車した。これに対して文句を言う者は誰もいなかった。
一時間ほど走るとルーカス駅に着いた。ルーカス駅は決して大きな駅とはいえないのだが、直ぐ近くに世界中で最も有名なゴルフ・コースであるセント・アンドリュースがあるために、タクシーやバスが沢山駐車しており、交通アクセスのいい駅なのだ。真がドライバーにゴッドフリーの住所を告げるとゴルフ・コースの方に切りかけたハンドルを戻しながら、何をしにそんな所に行くのかと真に聞いた。サーモン・フィッシングだと告げると、訝しむ視線をバック・ミラー越しに投げかけて、今までに日本人のサーモン・フィッシャーには会ったことはないと言った。
二十分程で、車はゴッドフリーの家の前の坂道に停車した。向かって右手にはガレージがある。ここはゴッドフリーの工房になっている。ゴッドフリーは、釣りのオフ・シーズンにはここで車のレストアをして稼ぐ。年に一台レストアすれば、一年は食えるのだそうだ。
半年かけて一台レストアし、半年は釣りまくる。向かって左手の道路よりも低い位置に住居がある。石段を降りて行ったところが玄関になっている。
ドライバーに時間を聞くと、十二時を少し回ったところだった。時間には正確なお国柄だ。今頃ゴッドフリーはランチの前の手を洗っているところだろう。妊娠したドーンはランチの準備をいつもよりゆっくりとやっていることだろう。コーヒー・メーカーでお湯を沸かして、今日のメニューはドーンの得意なキーシュか。真は車を降りると、自分の生家に帰ってきたように弾んだ気持ちで石段を下りて行った。
「ハイ、ゴッドフリー」
「ハイ、シン。どうしたんだ」
「もう手は洗ったのか」
「ハハハハハ、いつも僕の手は綺麗なもんさ。夕方じゃなかったのか」
「うん、パリにはもう、うんざりしたんで早めに来たんだ」
ゴッドフリーがテーブルから離れて握手を求めて立ち上がる。妻のドーンもテーブルを回って真の方にやって来る。真はドーンに対してフランス式に両方の頬にキスする。
「ヘイ、シン。イッツ・フレンチ・スタイル」
「ハハハ、今日からはスコティッシュ・スタイルでいくよ。元気だったかい」
「ああ、皆元気だ。ドーンもマリーも皆」
「問題は天気だな」
「その通り。こんな天気は恥だ。ここ十年来こんな天気は初めてだ。いつもならもうとっくに雨が降っているはずなんだが。何か飲むか、シン」
「うん、じゃ、ウィスキーをもらおうか」
「ウィスキーだとさ、ドーン」
「冗談だよ。コーヒーとそのキーシュがほしいな。ドーンの作ったキーシュは美味しいから」
「そう言ってくれるのはシンだけよ」
「ゴッドフリー、今週は駄目かも知れないな」
「イッツ・ア・シェイム。スプリング・ランは例年並みだったんだが、先月からは全く雨が降ってないんだ」
「パリは大雨で洪水になったっていうのになあ。でも、暑いな今年は」
「確かに暑い。まだ夏が続いてるって感じだ。いつもの年なら今頃は毎日雨雨の天気なんだが」
「サーモンは今までに何尾釣れてるんだ、ゴッドフリー」
「三十程だ。シー・トラウトはまずまずなんだが、このコンディションじゃ昼間の釣りは無理だな」
「おいおい、やっぱり夜釣りなのか」
「シン、本当に申し訳ない。僕だって先週は一尾も釣っていないんだ」
「とにかく川を見てみたいな。やっぱり下流のプールだろうな」
「どこも同じだ。好きなプールを言ってくれ、案内しよう。先週来ていたイギリス人は、あんまり釣れないんでさっさとロンドンに帰ってしまったよ」
「全くなのか」
「いや、初日にシー・トラウトを二尾上げたきりだ」
真はゴッドフリーのドライブする車でサーモン・リバーへと向かった。
日本の真夏を思わせる程の熱を感じさせる太陽の光が眩しかった。五分程のドライブで川に着いた。
川の両側に繁る木々は緑に覆われ、秋の到来はまだまだ先のことであるかのようにクチン質を輝かせていた。
川は死んでいた。無残に川床をのぞかせ、淵にはアオコが浮かび日本の渇水期のダムのような緑色の帯が連なっていた。川は餓死していた。水の流れのない川は惨めに見えた。水のない川は、悲しかった。
「ゴッドフリー、ひどいな」
「イッツ・ア・シェイム。こんな川じゃ釣りにならない」
「行こう。マリーのコテジに行ってシェリーでも飲もう」
真はゴッドフリーを促して車の方に歩き始めた。と、川岸に無数に浮いている蜉蝣やトビケラの死骸が眼に入った。
「ゴッドフリー、どうしてあんなに虫が死んでるんだ」
「おかしいんだ。先週あたりから虫が浮いて来てる。ちょっと異常な量だ。あんまり水が少なくて水温が高すぎるせいだとは思うが。あの草だって、いつもの年なら枯れてるはずなんだが、まだ夏の頃の成長を続けてる」
ゴッドフリーが岸辺の灌木の間に点々と生えているホッグ・ウィードと呼ばれる植物を指さした。この植物は一メートル半程の高さで、大きな八つ手のような葉を沢山つけている。葉には刺があり、この刺には毒がある。うっかり触ると一週間は痛みが続き、刺された部分から半径五センチ位が腫れ上がって固くなる。ひどいときには、指先に触っただけなのに、肘まで腫れ上がることもあるくらい強い毒を持っている。
この植物は、植民地時代にイギリスがインドからジュートを輸入したときに、種が一緒に運ばれてきて根づいたものだということだ。スコットランドという寒冷の地にあって、この植物だけが異常気象の恩恵を唯一受けて活き活きと根を張っていた。
第二章
2-1
マリーはゴッドフリーとドーンとの友人で、二人の兄と共に広大な農場で働いている。
今の季節は一年で最も忙しい刈り入れのシーズンに当たり、真たち釣り師とは逆に雨が降らないことを願っているファーマーだ。 真はこのマリーの持っているコテジを毎年釣りに来る時期だけ借りているのだ。
コテジといっても、ベッド・ルームが二つにシッティング・ルーム、キッチンがついているし、テレビもレンジも洗濯機も暖炉もあるから、ひと月位暮らすには何の支障もない。
ただし、電話はない。ないというよりも、外とのコミュニケーションを絶つことによって十分にホリデイをエンジョイしてもらうために、つけていないのだ。
ゴッドフリーが、マリーから預かった鍵でドアを開けてくれる。 入って直ぐの廊下には、真の釣りのためのウェア類、帽子、雨具、膝までの長さのニー・ブーツ、水の中に立ち込むためのウェーダー、ロッド、リール類が整然と置かれている。真が来る前にゴッドフリーが預けておいたそれらの釣り具一式を並べておいてくれたのだ。
すでにここはコテジではなく、真の住処になって真を待っていた。 ゴッドフリーが右側のベッド・ルームに真の荷物を運び込む。 真は左側のシッティング・ルームに行ってソファに腰を下ろす。毎年変わらない、コテジに着いたときのまず最初のアクションだ。
そして、テーブルの上にセットしてある、「ドライ・フライ」というポルトガル産のシェリーを一口。
グリーンのボトルにブラウンのラベル。
ラベルには浮かして使用する毛針であるドライ・フライのイラストが書いてある。
テイストはドライというわけでもないのだが、その名前が真は気に入っている。
五年前、初めてこの国に来たときに、宿泊先の主人がたまたま出してくれたのがこのシェリーだった。それ以来、このシェリーをまず飲むところから釣りを始めるというのが癖になってしまったのだ。
いつもはこの部屋に入った途端、暖炉に火を入れるのだが、その日はセーターすら不要なのではないかと思わせるくらいに暑かった。ゴッドフリーがTシャツ姿になって真の向かい側に腰を下ろした。
「どうしたもんかなあゴッドフリー、明日からの釣りは」
「君次第だよ、シン。行くというのなら連れて行くよ。シー・トラウトなら釣れるかもしれない」
「もう、シー・トラウトはいいよ。今年こそサーモンを釣りたいんだ」
「それは分かる。だが、この天気じゃな。ツーリストにはピッタリなんだが」
二人は窓から差し込んでくる、目を射るような太陽の輝きを恨めしげに眺める。
釣り師にとってのいい天気とは曇りのことである。
それに、ある程度の雨量も必要だ。降りすぎてもいけないし、降らなくてもいけない。先週は良かった、来週はいいだろうと釣れない理由を天気のせいにするのは釣り師の特技の一つだが、全く雨が降らないというのではそれ以前の話だ。
「シン、家に戻ってやりかけた仕事を片づけてくるよ。夕方には迎えに来る。今夜は家で食事するといい。マリーも呼んでるから」
ゴッドフリーはそう言うと自分の家に帰っていった。真はゴッドフリーが帰ってから、ゆっくりと荷物を解き、ベッドの上に寝そべった。
ベッド・ルームからは、レースのカーテン越しに、直視できないほどの輝きを見せる太陽の光が、まだ刈り入れの済んでいないマリーの畑の小麦に反射しているのが見えた。
真は、ついさっきゴッドフリーに言った
「シー・トラウトはもういいよ。今年こそサーモンを釣りたいんだ」
という言葉を口にしてみた。それは本心だった。
永すぎる時をサーモンのために費やしていた。
ブラウン・トラウト、シー・トラウトまでは釣り上げることができた。だが、サーモンは未だ釣ってはいなかった。
「夜釣りはもういいよ」
真はもう一度小さく呟いた。シー・トラウト・フィッシングは二度とも夜釣りだった。
サーモンは春と秋に上ってくるのだが、その間の夏にシー・トラウトは上ってくる。
だが、夏の間は雨が少なく川の水が少ないために、昼間はじっと河口や淵に留まって夜になるまで待つのだ。そして、彼らは夜になって初めて行動を開始する。
そのため、シー・トラウト・フィッシングは、どうしても夜釣りになってしまうのだ。
夜釣りといっても全くの闇が訪れるわけではない。この国は緯度が高いために夏の季節は午後十時頃にならなければ暗くはならない。
濃紺の空に星が輝き遅い月の出の中で、それまでに飲み過ぎたジンに脚を取られながら黒いシルエットになって川岸に立つ。
彼方から聞こえてくる、想像を絶するような魚が跳ねる音が釣りの開始の合図である。シー・トラウトは、群れになって暗くなるのを待って上ってくるのだ。
そして、群れが通りすぎると、何事もなかったかのように川は静寂に包まれる。川辺のゴロタ石の上に横になり、ジンをあおる。
夏といっても夜の川岸は冷える。そうこうしているうちにまた次の群れがやってくる。こんなことを朝の五時までやってはコテジに戻り、昼過ぎに起きては夜中まで待ち、一晩中釣ってはまた次の日を迎えるのだ。
真は初めてこの川でゴッドフリーと一緒に釣りをして掛けたシー・トラウトのことを思い出していた。
2-2
「ゴッドフリー、魚はいるのか。やたら静かじゃないか」
「いる。彼らは河口の辺りで夜になるのを待ってるんだ。もう少し待て。ほら、聞こえてくるだろ」
「何が」
「魚が上ってくる音だ」
「全然」
「ほら、大きな水音が聞こえるだろ」
ゴッドフリーが言い終わる前に、彼方の灌木の下、月光に黄金色に輝く水面が割れて魚が飛び出してきた。それに続く大きな水音。そのすぐ横でも、そのすぐ後ろでも魚たちはジャンプしてはどんどん近づいてくる。
「シー・トラウトが何百も何千も上ってきてる。シン、行こうぜ」
ゴッドフリーがそう言ったときには、真はロッドを掴んで立ち上がっていた。群れは真が想像していたスピードよりも速く近づいてくる。
ジャンプする魚の姿が月明かりの中でもはっきりと見て取れた。六、七十センチはある。中には一メートルはあるのではないかと思えるような巨大な魚もいる。十ポンド・オーバーは間違いないだろう。 シー・トラウトはブラウン・トラウトの降海型なのだが、太平洋のサーモンのように一回の産卵では死なず、四、五回の産卵を繰り返すために巨大化するのだ。群れはもう真の立つ岸辺の直ぐ目の前まで来ていた。大きな魚がジャンプしては嘲るように通りすぎて行った。何度かのキャストの後、ひったくるような当たりが真のロッドに届いた。反射的に真はロッドを立てて両腕で支えた。
「シン、駄目だ。そんなに急にロッドを立てるな。フッキングは必要ない。シー・トラウトはサーモンと違って食い気があるんだ。向こう合わせで掛かってくるから心配ない」
「分かった」
両手でロッドを支える真の体と魚とがラインを間に繋がっていた。ロッドが曲がり、大きな月の弧と重なる。
魚は無闇に走った。 魚はリールに巻いてあるラインを引き出して走った。 リールのラチェット音が濃紺の夜空にこだまする。真の手元には、魚の力強い動きが伝わってくる。魚は海に住んでいたときの泳ぎを川の中でデモンストレーションして見せている。 魚にしてみれば、ほんの小魚に見えたフライが信じがたい抵抗を続けて引っ張っていこうとすることが理解できずにパニックになっているはずだ。真は、魚の抵抗が少し弱まるとロッドをあおってラインをリールに巻き取る。また魚がラインを引き出して走る。またロッドをあおって巻き取る。何度か同じことをしているうちに、魚の怒りは頂点に達した。
魚は、以前にも増して強い力でラインを引き出して走り、彼方のブッシュの枝に向かってジャンプした。ジャンプした弾みで、魚は枝を巻くように回転した。そして、回転を終えたとき、真のロッドには虚無の重みが残されていた。
「ホッホーッ、ワンダフル!グッド・ファイト!」
ゴッドフリーが大声で真の背後から叫ぶ。
「忘れろ、シン。まだまだ魚は何千尾もいるんだ。さあ、フライをつけ直せ。次の魚を狙え」
これが真のシー・トラウトとの最初の出会いだった。
その夜、真は結局シー・トラウトを釣り上げることができたのだが、今までに、あの最初の魚より大きなのは釣っていなかった。最初の出会いに大物がやってくるのだ。魚は大きな奴から必ず先に掛かってくる。
そして、逃がした魚はいつまでも記憶の中に焼きついて、時間が経つ程に釣り師の頭の中でますます大きく成長していく。
常に「今」という時間の中に住み続けること、それが真の住む広告業界の掟だ。過去もなければ未来もない。あるのは今だけである。
今、何が流行っているのか、今、何が売れているのか、今、誰が一番人気があるのかだけが関心事でなければならない。
時代とのモグラ叩きをやり続けることができなければこの世界では生き残っていけないのだ。そんな世界に住む真にとって、サーモン・フィッシングは永遠なるもの、不変にして普遍なるものとして、倦怠の日常に射し込む強烈な一条の光に思えた。
「ヘイ、シン。ヘイ、グッド・イーブニング」
真は戸口で叫ぶゴッドフリーの声で我に返った。ゴッドフリーがやってきたということはもう午後五時頃なのだろう。真はベッドの上から下りると入口の方に歩いていった。
「グッド・イーブニング、ゴッドフリー。もう、五時か」
「そうだ。寝てたのか、シン。もう歳だな」
「いや、ちょっと考え事をしてたんだ」
「さあ、行こう。皆待ってるぞ」
「分かった。直ぐに支度するよ」
「そのままでいい。それで十分だ」
夏の間の村の夕暮れは近所の友人と飲むことがたった一つの楽しみである。
サパーまでの二時間延々と飲み、延々と語る。陽はまだ高くとても夕方とは思えないが、五時からは飲み始める。
真は、ゴッドフリーにジンを頼む。タンカレー・ジンをソーダで割り、櫛形に切ったフレッシュ・ライムをギュッと絞って氷のかけらを三つ。これが、真の好きな飲み方だ。アペリティフにはちょっときついが、寝ぼけた体を起こしてやるにはちょうどいい。
アペリティフの後は質素なサパー。この日は真が着くというのでマリーとドーンとで力を合わせて料理を作ってくれたのだ。
サラダと一品。それがこの国のサパーの典型である。一品は茄子のミンチ挟み。そして二、三枚のパン。夕食は胃に負担を掛けないようにするのが体のために良いというのが、この国の古くからの伝統であるからしてこれは致し方ない、とあきらめてはいたが、さすがにパリから直接入ってくると、食文化の違いが際立った。
さっさと食事を終えると、ウィスキー片手にカードが始まる。
どうせ今夜は釣りに行くわけじゃないのだと、真はグラスを重ねた。彼らと再会できた喜びもあったからだろう。
飲んで少し眠気を覚えた頃、ゴッドフリーが真に言った。
「ヘイ、シン、釣りに行こうぜ。時間だぞ」
時計を見ると十時前だ。外を見ると薄闇になっていた。
「明日の朝、そう言えるといいけどなあ。あんな川じゃどうしようもないな。明日はオフにするしかないな。雨でも降れば別だが」
と真が言ったとき、外の木々がざわめき、カードをしていたシッティング・ルームの窓枠が音を立てた。そして直ぐに降り始めた雨が窓ガラスを叩き始めた。全員がカードを放り出して窓に向かって立ち上がった。突然嵐がやってきたような激しい降り方だった。
ゴッドフリーがテレビのスイッチを入れた。しばらくしてから、やっと天気予報の時間になった。何と嵐が本当に来ていた。それも、この辺りをすっぽりと覆う規模だ。全く雨が降らないとついさっきまで嘆いていたのに、今度は嵐だ。激しい雨が降るはずだ。
「ゴッドフリー、今度は大雨で釣りにならないな」
「何を言ってるんだシン、君はラッキーだぞ。この雨はサーモンを呼ぶぞ。永い間河口で待って待って待ちきれなくなったサーモンを呼ぶんだ。明日からはサーモン・フィッシングだ。ラッキーだな、本当に君は」
第三章
3-1
雨は一晩中降り続いた。真は疲れ切っているはずなのに、その晩はなかなか寝つかれずにいた。
シェリーを飲み、ウィスキーを飲みしてアルコールで何とか疲れた体をなだめすかそうとするのだが、いくらグラスを重ねても覚醒していくばかりで、体が痺れていくことも、大脳が麻痺していくこともなかった。
明け方近くになってベッドにもぐり込んでからも、窓に当たる雨の音は変わらないままだったが、脈絡の途絶えた思考回路の中に、どうしてもサーモンを釣り上げたいという透明な意識が芽生え、真は全身に力を込めた。何が何でも釣り上げたい、そう念じて真は体中の筋肉に力を込めた。
それは、意識の底部に明らかな意志を焼き付けるための儀式としての機能を果たしたのかも知れなかった。
ゆっくりと力を抜いていくのと、眠りが襲ってくるのとが交差していくのを真は感じていた。
「ハイ、シン。グッド・モーニング」
ゴッドフリーの陽気な声がベッド・ルームの外に響く。きっと真が気づくまでに、すでに何度も呼んだのだろう。ゴッドフリーは、レースのカーテン越しに窓から顔を覗かせ、窓ガラスを叩いている。
真は眠い目を擦りながら窓の方に向き手を上げて応えると、入口のドアを開けに起きて行った。
「ヘイ、まだ寝てたのか。今日はいい天気だぞ。サーモンが上ってくるぞ」
「雨はまだ降ってるんだろ」
「もう小降りだ、大丈夫。グッド・コンディション」
ゴッドフリーは、そう言いながらキッチンに向かうとお湯を沸かす用意をし、戻ってきてすぐに暖炉に火を起こし、天気予報をチェックすべくテレビのスイッチを入れる。ソファに腰を下ろし眠気の覚めやらぬ眼差しで外に目をやると、まだ雨は降り続いていたし、風も吹いていることが近くの木々の揺れ方で分かる。
昨夜に比べると多少小降りになっているとはいえ、雲は低く彼方の山々はおろか近くの丘さえも覆い隠していた。
天気予報はこの嵐は当分収まらないだろうと告げていた。これだけの雨が一遍に降ったのでは釣りにならない。オフだ。真がゴッドフリーにオフだと告げると川を見に行こうと言う。
「ゴッドフリー、これだけ降ったんじゃ、どうにもならないだろ」
「シン、この雨は初めての雨なんだ。永い間雨は降ってないんだ。いつもなら、今頃は、雨雨雨の毎日なんだ。これくらいの雨なんて降ったうちに入らない」
「でも、昨夜は豪雨だったじゃないか。嵐が来てるって言ってるじゃないか」
真は、眠気のせいもあってぐずり始める。
ゴッドフリーはキッチンに行ってコーヒーを入れ、トーストを焼き、何とか真の目を覚まそうと必死だ。
ゴッドフリーはギリーとしての職務を果たそうとし、真は雇い主としてのわがままを通そうとしていた。コテジに戻ったのが夜中の二時、それからは明け方まで飲み続け、気がつくとゴッドフリーに起こされていたわけだから、昨夜は二、三時間しか寝ていないことになる。眠くない方がおかしいのだ。
「シン、君はサーモンを釣りたくないのか」
「そりゃ、釣りたいに決まってるだろ。でも、この天気じゃ、釣りにならないだろ」
「君は僕よりもここらの天気に詳しいらしいな」
「天気予報でも言ってるじゃないか。当分嵐は収まりそうもないって」
「シン、サーモンは永い間この雨を河口の辺りで待ってたんだ。今、彼らは上りたくて上リたくて仕方ないんだ。今釣らなくて何時釣るって言うんだ」
「分かったよ、行けばいいんだろ」
真は渋々服を着替え、ゴッドフリーの車に乗り込む。外に出ると、横殴りの雨が吹きつける。
嵐の真っ只中にいることは間違いなかった。それなのに、ゴッドフリーは川を見に真を強引に連れ出した。
川は濁流に変わってしまっていた。前日まで、全くといっていいほど水のなかった川と同じ川だとは思えないくらいの変わり様だった。
上流の流れは茶色に変わり、圧倒的な水量と流速でどうどうと音を立てて流れている。川岸に立ち並ぶ灌木を水中に引きずり込み、支流と本流との間にある中州すら水底に沈んでしまっている。こんな流れの中をサーモンが上れるのだろうか。
「ベリィ・グッド・コンディション」
「冗談だろ」
「見ろ、シン。あの中州の灌木の頭が出てるだろ。あれが出てるってことは、水位が五フィート程上がったってことなんだ。これがこの川のベストの水位なんだ。サーモンが上ってくるぞ。グリルスが上ってくるぞ」
「ゴッドフリー、これじゃ釣りにならないだろ」
「いや、心配するなシン。水は直ぐに澄んでくる。半日もあればクリアな水になる。昼になったらもう一度見にきてみよう。それでクリアなら迎えに行く。それまでは、コテジでゆっくりしてればいい」
3-2
アトランティック・サーモンは春と秋に生まれた川に上ってくる。 生まれてから三~四年を経て初めての産卵のために上ってきた個体を特にグリルスと呼び、二回以上の遡上を体験した個体に対してのみサーモンという呼称が与えられる。
グリルスは、銀色の魚体に輝き、そのファイト振りの凄まじいことで知られている。掛けると一気に百ヤードも走るというのはこのグリルスのことである。
サーモンになると、走るという動作よりも水中に持ち込むという動作を繰り返すようになり、頭を振るヘッド・シェイキングを繰り返すことで老獪さを伝えてくる。
グリルスは、川を上っていくに従って体を赤く染めていく。この色はスポーニング・カラー、婚姻色と呼ばれ、体が産卵の準備に入っていることを示している。真っ赤な体になって産卵を済ませるとまた海に戻っていくのだが、もう二度と元の銀色の魚体には戻らない。次の遡上のときには、薄いピンクの魚体を持つサーモンとして上ってくるのだ。そして、何度かの遡上を繰り返し、成長しきったサーモンは八十ポンドという魚体を持つに至る淡水魚の雄であり、巨大な野生である。
春に生まれた個体は春に、秋に生まれた個体は秋に、それぞれ上ってくる。何故それが春と秋なのか、何故生まれた川でなければならないのか、という疑問に対する答えは、未だに明確には分かっていない。
そして、産卵の後のアトランティック・サーモンの死骸を見たものは誰もいない。
それが最後の産卵なのかどうかは、次の遡上があるのかないのかまで待たなければならない。その死に様は、遊牧の民のそれに似て、故郷に老残を曝さず、客死を潔く受け入れるかのようである。そしてまたそれは、この川に通い続けるサーモン・フィッシャーのそれとも軌を一にするかのようである。 何故なら、毎年通い続けるサーモン・フィッシャーの死によってのみ、川をレンタルする釣り人も入れ替わって行くからである。
スプリング・サーモン・フィッシングは二月に始まるが、春まだ遠いこの頃の釣りは過酷そのものである。
岸辺に張った氷を割り、シャーベット状の川に立ち込み、手は凍りつき、ロッドを滑るラインも凍りつくにまかせたまま、まるで殉教者のようにキャストを繰り返す。
これに対して、オータム・サーモン・フィッシングは今度は川岸に立ち並ぶ灌木が散らす落ち葉との闘いである。水中を流れる落ち葉にフライが引っ掛かったときの手応えと、サーモンがフライをくわえたときの手応えとがそっくりなのだ。
落ち葉を引っかける度にアドレナリンが放出され、緊張の連続で身が持たない。疲労度の高さといったらないのだ。
九月という、晩夏から初秋にかけての釣りは一年のうちでも最も釣りやすい季節ということができるのだが、勿論それはその年の天候、とりわけ雨量によって大きく左右されることになる。 先週は良かった、来週はいいだろう、こう聞かされて今年で五年目になる。
一年のうちで釣期が三十七週、そのうちサーモンの釣期が春と秋で二十六週。この中のたったの一週間の間にベスト・コンディションの川に巡り合うというのは至難の技だ。
しかも、遡上に備えて胃を収縮させてしまって全く食い気のないサーモンをフライで釣り上げるというのは、気の遠くなるような確率の低さということができる。
真はフライ・ボックスを開けて中に入れてあるフライを眺める。 毎年ここで釣りをする度に幾つかのフライが増えていき、シー・トラウトを掛けたフライの数も増えていった。だが、まだ真はサーモンを掛けたフライを一本も持っていなかった。
頬杖をついてシェリーを一口。昼間に独りで飲むシェリーは、けだるく無為な時を過ごすための良き友であり、アンニュイな時間を演出する。
といっても、ここは質実剛健の国スコットランドであるからして、パリでの隠微にして頽廃を漂わせるアンニュイに比べたら何倍も健康的になってしまうのだが、釣りに来て天候待ちをする間というのは、好きな女を待ち続けるときの気持ちと変わらない。
何も考えられず、何をするにも手につかず、つのる、早く会いたいという思いが頭の中に充満してくるのにただ堪えるだけで時をやり過ごし、呆然と立ち尽くすのみである。
それにしても、昨日までのあの暑さは何処へ行ってしまったのだろう。
この嵐は大量の風雨とともに寒気をも運んできたようだ。
暖炉には薪と石炭をたっぷりと放り込んであるのだが、炎は顔をあぶるばかりで体まで温まることができない。必然アルコールの量が増えていかざるをえない。
真はシェリーからジンにグラスを換えた。
つけっぱなしにしてある映りの悪いテレビが、また天気予報を流し始めた。それによると、天気は暫くこのまま推移するだろうということだった。
映像は、各地の川の増水の様子を映し出していた。
季節は明らかに変わりつつあった。夏の終わりから、秋の始まりに向けて。
3-3
「ハイ、グッド・アフタヌーン、シン」
ゴッドフリーが、はしゃいだ声でコテジの入口に立つ。
「ヘイ、喜べシン。水はどんどん澄んできてるぞ。夕方には釣りができるぞ。さあ、支度しろ、フィッシングに出発だ」
真は半信半疑のまま支度を整える。セーターをもう一枚重ね、ジャケットを着込みニー・ブーツを履き、念のためにウェーダーを持っていくことにした。いつもなら釣りに行くときには、川に着いたら直ぐに釣り始められるように予めウェーダーを履いて車に乗り込むのだが、この天気ではそんな気にもならなかった。
だが、ゴッドフリーは間違ってはいなかった。
午前中に見た川は濁流としか言いようのない状態だったのに、水量はまだ多いものの確かにゴッドフリーの言うように澄み始めていた。濁りやすいは澄みやすいということなのだろう。
なだらかに見えるスコットランドの山々も、見かけとは違って結構傾斜を持っていることが実感できる。
風はまだ吹き止まず、雨もまだ降り続けてはいたが、ここで引き返してコテジに戻ってシェリーを飲むのかそれとも川に入るのかという選択をするのに、釣り師にとっては一秒の時間ですら永すぎるくらいだ。
「行ってみるか、ゴッドフリー」
「当然だろ、シン」
「ちょっと待ってれば、釣りになりそうだな」
「今直ぐだ、シン。今直ぐ釣り始めるんだ」
「まだ水量が多くて危険だろ」
「シン、サーモンだって命懸けで上ってくるんだ。サーモンはずっと永い間この雨を待ってたんだ。もう上りたくて上りたくてうずうずしてるんだ。直ぐに上ってくるぞ」
ゴッドフリーは、雨が降っても比較的水位の低いプールに真を連れて行った。
ボート・プール。
舟遊びでもしたくなるような、ゆったりとした浅い流れが続くプールだ。だが、このプールですら増水した川の水は滔々と流れ、腰までのウェーディングでも体が浮き上がってしまって足元を掬われそうになる。
この状態では上半身に不必要な力が掛かるばかりで安定したキャストは望めない。しかもこの増水に対抗するために、いつもよりも重い先端の部分だけが沈むラインである♯8のシンク・ティップ・ラインを使わざるをえないからよけいに困難を伴う。 一時間程キャストした後、真は川岸に置かれたベンチに腰を下ろしていた。ロッドをベンチの横のロッド・ホルダーに立てかけ一息入れていると、オーナーのトニーがゆったりした足取りで川沿いの小道を真の方に向かってくるのが見えた。
まだ、午後三時過ぎだというのに、それに今日は月曜日だ。
「グッド・アフタヌーン、シン。今日はいい日になりそうだねえ」
「グッド・アフタヌーン、トニー。今日はエディンバラじゃなかったの」
「ハハン、シン、今日は昼までで切り上げてこっちに戻ったんだ。だって、昨夜の雨は最高だったからねえ」
トニーは政府の要職にある、とゴッドフリーに聞いていたが、政府の要人からしてこれではこの国が落ち目になっていくのもうなづける。
だが、落ち目なのにこのゆとりの方が尚更驚かされる。
毎週金曜日の夜には、エディンバラから家族とともにレインジ・ローバーに乗ってコテジにやって来ることは真も知っていたが、昨夜の豪雨は、サーモンに対してだけではなく、この川のオーナーに対しても、仕事を放り出して駆けつけさせる程の効果があったようだった。
「シン、もう見たかい、サーモンがジャンプするのを」
「いや、まだだ。水が多すぎて、僕には難しいよ、トニー」
「水が多い?シン、君はいつも水が少ないときに当たってしまって、この川の普通の状態 を知らないんだ。
シン、これがこの川の普通の状態なんだ。しかも、ベストだ。シン、覚えてるかな。去年、僕がスケッチしてた川のデザインを君に見せただろ。
あのときに考えてたこの川の水の高さはこの状態なんだ。ほら、あそこの木の枝の被さり方はラブリーじゃないかい。それに、ほら、あそこの底石のレイアウトもいいだろ。これ以上水が少ないと石が水面に出てきて醜くなってしまうだろ」
「でも、体が違うよ、トニー。あんたはでっかいもの。ハンディをもらわなきゃ」
「ハハハ、シン、サーモン・フィッシングにハンディはないよ。 君の国の相撲レスラーと同じだ。体力と知力とを尽くして釣らなけりゃサーモンは釣れないんだ。
そうだ、僕の巻いたフライをあげよう。大きいのは今日みたいに水が多めのときに、小さい方は水が少なめのときに使うといい。どっちも同じものだ」
「トレブル・フック?」
「ああ、きっと君はそれで何尾かのサーモンを釣り上げるだろうと思うよ。それが、僕が君にあげられるハンディだ。ところで、君はもうこのプールで釣らないのかい」
「うん、もう少し足場のいいプールに行くよ」
「じゃ、僕がここで釣ってもいいかい」
「いいよ、トニー」
「ありがとう、シン。じゃ後で」
「タイト・ラインズ!トニー」
3-4
真はトニーに釣り師同士の合言葉を送る。ピンと張った釣り糸、つまり、大釣りを!という意味である。
トニーはさっさと立ち上がり、ほんの少しだけ上流に向かって歩くと、直ぐに川に入った。
真の座っているところにまでドボンという大きな水音がはっきりと聞こえた。なんて荒っぽいウェーディングだろう。あれで年に十五尾のサーモンを上げるというのだから不思議だ。
真は手元に残された、トニーがくれたフライを眺めた。
それは、錨針に巻かれた二つのシュリンプ・フライだった。
海にいるときにサーモンが好んで食べると言われる蝦を模したフライだ。そのフライはクラシック・パターンとは全く違う、実戦的なフライだった。
しかも、オーナー自らが経験の中から見つけ出したパターンだ。美しいとは決して言えないが、真にはそのフライはいかにも釣れそうに思えた。
「ヘーイ、シン、魚が動いてるぞ。サーモンが上ってきてるぞ」
トニーはもう真の目の前をウェーディングしている。
ゴッドフリーは何とか真に釣らせようと色々なプールに連れて行くのだが、一番足場がいいボート・プールですらどうにもならないのだから手の施しようがなかった。
水位が高いだけでなく、流速があるために、ウェーディングしても体が不安定で思うようにキャストすらできない。
シンク・ティップ・ラインですらフライを沈めることができずに、流心に近づく前に浮き上がってしまい目で見えるのだから釣れるはずがない。
フライに小さな重りであるスプリット・ショットを思いっきり噛ませるが、今度はキャストがままならない。
「スピニング・リールを使うか?」
ゴッドフリーが囁く。
「ライブ・ベイトを使うか?」
悪魔の囁き。
「いや、フライで釣らなきゃ釣ったことにならない」
「シン、こんなときにはやってもいいんだ。釣ることが大事なんだ」
「いや、釣り方が大事だ。そんなので釣っても意味がない」
第四章
4-1
こうして四日が経った。真は朝方から夕方まで、途中ランチを食べるためにパブに行く以外は川でロッドを振り続けた。
十一フィートのロッドに♯8のシンク・ティップ・ラインという、サーモンを釣るセットとしては比較的軽いタックルも、四日間を経過するとヘビーなタックルに変わってくる。
川に立ち込んでロッドを振り続けていると、両手首から肘、両肩から背中、腰から両脚にかけて左右二本の筋肉の筋が通り抜けていて、その筋が自律的に運動を繰り返しているかのような気持ちになってくる。止めようとしても止まらないのだ。
キャストし、流心まで流してゆっくりと手繰り寄せてくるスロー・リトリーブを加え、一歩下流に下がってまたキャストする、という一連の動きが、何かに憑かれたように繰り返されていくのだ。
一回のキャストに要する時間は約一分。一時間で六十回。八時間で四百八十回。四日間で千九百二十回。
そして、釣果はゼロ。
日本には、ごくごく稀なことを指して千三つという言葉があるが、サーモン・フィッシングはそれの比ではない。 一週間こうして釣り続けてもゼロのことだって普通のことなのだ。
さすがにゴッドフリーも焦り始めた。
ギリーの釣った魚は雇い主が釣ったことになるのだが、真はこれをも拒否していた。だが、ゴッドフリーはもうそんなことは言っていられないとでも言いたげな悲壮感すら漂わせた表情で、とにかく釣らなければと、スピニング・リールに大きなスプーンを付けて振り回す。
だが、掛かってくるのは体を真っ赤なスポーニング・カラーに染めた雌ばかりで、キープすることができない。
ゴッドフリーは、真に初心者用のスピニング・リールでの餌釣りを懇願し始めた。真にも、もう残すところ二日だという焦りがないわけではなかった。
今年も駄目かという思いが心の底に沈み始めていることも否定できなかった。
雨はあの後全く降らず、もうすでに真が最初に見た川の水位と同じくらいに低くなっていた。
毎日、1フット以上のペースで水位が下がっていっていることが、毎日ゴッドフリーが川岸の水際に立てていく小枝の位置で判断できた。
水量からすると、今日が最後のチャンスのように思えた。
真はその日、川を前にして両目をしっかりと閉じ、サーモンを掛けた自分自身をイメージしてからゆっくりと川に入った。
その日の指定プールはレッド・ブレイ。
真の気に入っているプールの一つだ。上流に浅い流れがあり、淵に向かって流れ込み、広くて浅い下のプールへと繋がっている。下流から上ってきたサーモンが身を隠し体力の回復を待つには絶好のプールに思える。
真はプールの最上流から釣り始めた。十五ポンド・テストのリーダーに、フライはトニーにもらったシュリンプ・フライの小さい方を結んだ。あの雨以来、寒さは日に日に増していき、水面に浮かぶ木の葉の色もサーモンのように赤く染まり始めた。
釣りをしながら、季節の移り変わりを一瞬のうちに見ることがある。
川面を渡る一陣の風が木々を震わせたかと思うと、風が当たったと思われる木の葉の色がすーっと変わるのだ。まるでそれは魔法を見ているような、不思議で、ちょっと切ないような光景である。
そして、その葉はやがてピート色した、ビターというビールのような色をして流れる水の上に、素っ気ないくらいにあっさりと落ちる。
静かな池の上にはらりと一枚紅葉の葉が落ちて水紋がゆっくりと広がっていく、といった日本の秋の情緒とは少し違うが、これがスコットランドの秋を告げる自然のセレモニーである。
一回目のルーティーンには木の葉ばかりが掛かってきた。 真は下流まで流し終わると一旦岸に上がり、また上流まで戻って釣り下る。真は三十分後には殆ど同じ場所まで下りてきていた。
斜め前の淵の手前に軽くキャストしたそのとき、トーンという当たりが真の手元に届いた。また木の葉かと真は反射的にロッドを少しだけ立て、引き寄せようとした。だが、その木の葉は寄ってこないばかりか、上流に向かって動き始めた。
真は咄嗟にラインを右手の指の間に挟み、ロッドで引き寄せようとした。
重い手応えが伝わってきた。
リールが鳴る。
リールのラインを引き出して魚が動き始めた。
リールが甲高い音をたて続ける。
魚が止まる。
真はロッドを両手で持ち引っ張ってみた。ロッドがたわむばかりで一向に寄ってこようとしない。ロッドをあおり、弛んだラインをリールに巻き取る。少しずつだが重い物体が近くに寄ってくるのが手応えで分かる。
ラインの先端に結んであるリーダーが見えてくる。
もう少しで魚体が見えると思ったそのとき、その物体は今度は下流に向かって突然走った。
もう少しだと安心しきっていたせいで、足元にまで気が回っていなかったらしく、真は水中の底石に足を取られて転倒してしまった。
ウェーダーから水が入ってくる。ジャケットの袖口からも水が入ってくる。
だが、ロッドだけは放さない。水中にあるリールから微かな音とともにラインが引き出されていく。真が水中に左手をついて体を起こそうとしたそのとき、信じ難いことにその物体は真を体ごと下流に引きずっていった。
水中の野生は魚の抵抗を超えて、釣り人に挑戦しているのだった。 背後でそれを見ていたゴッドフリーが見るに見かねて駆け寄ってきた。
「行かせろ、シン。ラインから手を放せ、指が切れるぞ」
その声が終わらないうちに、その物体はまた突然のダッシュをかけてきた。
真は水中にあるにもかかわらず、ロッドとラインを握っていた右掌に熱を感じた。ラインは真の右掌の皮膚を溶かし血管にまで至ったようだった。
ゆっくりと指を開いていくと、ピート色した水の中に赤い液体が溶け込もうとしているのが見えた。右手の指は親指を除いて第二関節の辺りがラインの摩擦でスパッと切れていた。
真は、ゴッドフリーの助けを借りて起き上がると体勢を整え、その物体の方にロッドを向けて構えた。ヘッド・シェイキングが伝わってくる。口に掛かったフライを外そうとしている。明らかに怒りの表現だ。ラインが水を切って移動していく。
あのラインの下にあいつはいる。
4-2
真はポケットからハンカチを取り出して右手に巻き付ける。直ぐに血が滲んできて、ラインとロッドがベトベトになる。
真はロッドを立て、ラインにテンションを与える。
ロッド・ティップが小刻みに震え、グラファイトがあいつのヘッド・シェイキングを増幅して真の手元に届けてくる。
真は両手でロッドを支え、ラインを張り続ける。少し抵抗が弱まるとロッドをあおり、ラインをリールに巻き取る。
寄ってくる手応えを見せる。だがもう真は騙されない。次の瞬間にはまた余力を使って走るに決まっている。
水中に持ち込む。深く深く潜ろうとする。
ロッドがのされないようにラインを送りながら張り続ける。こいつは上がってくるのだろうか、こいつを上げられるのだろうかと、ふと不安が過る。
あいつの動きが止まった。
じっとして水底に潜ったまま動こうとしない。
ロッドを両手であおってみるが、ロッドが大きく曲がるだけで寄せることができない。
しばらくそのまま時が過ぎた。
真はじっとしたままラインを張り続ける。
ラインを張り続けながら、その自分の光景を眺めている視線で自分を見ていた。
真はサーモンを掛けている自分の姿をはっきり捉えていた。と、ふっとラインに弛みができたかと思うと、あいつが水面を割って飛び出してきた。 口許にトニーのフライをくわえた真っ赤な雌のサーモンだった。
「ワァオ、イッツ・ノット・レス・ザン・40パウンド!」
ゴッドフリーが興奮した声で叫ぶ。
その声を聞いた真は急に自分のタックルが不安になった。
♯8のシンク・ティップ・ラインには十五ポンド・テストのリーダー、その先にはトニーにもらったフライが結んである。だが、その結び目が気になり始める。
フライの結び目が伸び切っているかも知れない。
リーダーがフライ・ラインに食い込んでちぎれかかっているかも知れない。
リーダーは、今までのあいつの抵抗で相当弱っているはずだ。
伸びてしまっているかも知れない。
この大きさになってくると鋭い歯も発達している。ヘッド・シェイキングで切られることもある。もう擦り切れて辛うじて繋がっているだけかも知れない。
そう思う気持ちが真の両手から一瞬力を奪った。
ラインの弛みにあいつはすかさず反応した。
あいつは真の立っている上流に向けて動き始めた。それも、かなりのスピードで。
リールを巻いてラインにテンションを与えなければならない。真は慌ててリールを巻き始めた。血でボタボタになったハンカチから飛沫が水面に飛んだ。
真は構わずにリールを巻いた。
逃がしたくない!
真は強烈にそのときそう意識した。
お前も永い間河口で待っていたかもしれない。でも、僕だって待っていたんだ。五日間もこうしてキャストを繰り返してきたんだ。お前を掛けるまでに五年もかかっているんだ。どんなことをしても必ず上げてやるぞ!
真は左手でロッドを支え、右手でリールを巻いた。
だが、いくら巻いてもハーディのプリンセス・リールではもどかしいくらいに巻き取れなかった。
やがて、魚は真の直ぐ前で止まった。距離にして十ヤードほどのところだ。
やっとラインを巻き取り終えた真は、両手でロッドを支え、あおってみた。重い手応えに変わりはないが、微かに寄ってくる。 もう一度あおる。また少し寄ってくる。リールを巻く。ロッドをあおる。魚はその背鰭が水から出るくらいの浅瀬まで寄ってきた。美しい脂鰭が見えた。
「気をつけろ、シン。一旦寄ってきても、まだまだ力は残ってるんだ。いつもそのときに切られるんだから」
ゴッドフリーが大きなランディング・ネットを構えて背後で叫ぶ。 トニーのくれたフライが魚の口許にはっきりと見える。右側の口許にそれはがっちりと掛かっていた。
だが、魚はまだ腹を見せてはいなかった。
一瞬、魚の眼と真の眼が合った。が、その魚の眼孔にはあるべきはずの眼がなかった。黒い空洞だけがそこにあった。
真は瞬間、一歩あとずさった。
あとずさる真の動きと、ランディングするためにゴッドフリーが魚に近づこうとする動きとが重なった。
魚はその気配を見逃さなかった。
ゴッドフリーがネットを入れるのと、魚が反転するのとは同時だった。
その魚は、一瞬の反転とヘッド・シェイキングによってトニーのフライのフックを折ると水が殆どなくなってしまった下流の浅いプールに向かって、背鰭を見せながら波を立てて泳ぎ去って行った。まるで、レッド・サブマリンのように。
「もう二度と上ってこないだろうな、ゴッドフリー。あいつは」
「ああ、奴にとっちゃ最後の産卵だったかも知れない。四十、いや五十はあったかも知れないな、シン」
「北極海にでも泳いで行くんだろうか。あいつ、眼がないんだ」
「何?」
「最後の女に逃げられたみたいな気分だ」
「しっかりしろシン、明日がある。今日もまだ終わっちゃいないぞ」
その夜、真はパブでディナーをゴッドフリーとその妻のドーンと一緒にとった。
ゴッドフリーは、昼間のサーモンの大きさやファイト振りをパブにいる客に吹聴して回った。だが、釣り上げたのと逃げられたのでは、天と地ほどの開きがあるのだ。
ゴッドフリーにそう言うと、どっちみち、雌はリリースしなければならなかったんだからと慰めてくれる。確かにそうだが、それは全く違う。
「元気をだせ、シン。明日もあるんだ。明日はグリルスだな」
「ありがとう、ゴッドフリー。疲れたよ、今日は。あいつ、本当に眼がなかったんだ」
「まだ、そんなことを言ってるのか。本当にもう歳だな、シン」
「うん、そうだとも。背中も腕も脚も、もう痺れてしまって言うことをきかない」
「明日は最後の日よ。がんばらなくちゃね、シン」
「ありがとう、ドーン。ああ、そうだゴッドフリー、尋ねたいことがあるんだけど」
「何だ」
「今、僕がレンタルしてる川だけど、僕がたまたまレンタルできたってことは、前にレンタルしてた男が死んだってことだろ」
「ああ、シン、その意味でも君はラッキーだ。サーモンは体力と知力とラックがなければ釣ることはできないんだ」
「その男のことだけど、多分去年のうちに死んだんだろうけど、何歳だったんだろう」
「どうして、そんなことを聞くんだ、シン」
「いや、何歳までこの釣りをしたいって気持ちが残ってるもんかと思って」
「彼は八十三歳だった。シン、彼は君の川に四十三年間通ったんだ。つまり、君の今の歳と同じだ。彼は、君が生まれてからずっとあの川に立っていたってことだ」
第五章
5-1
ゴッドフリーの言う、明日はなかった。
前日の夜、疲れ切った体にパブで多めのアルコールを飲んだせいで、真は朝方に目覚めることができなかった。昼間近くになってどうにか目が覚めたのは、異様な暑さのせいだった。
昨日までは寒くて、いつも朝方起きだしたときには毛布にくるまるようにしていたのに、今朝はベッドから毛布が落ちてしまっているのにシーツが湿るくらいに汗をかいている。
ぼんやりした頭で起きだし、入口のドアのところまで行くと、ドアに手紙が挟んであるのに気づいた。
ゴッドフリーからのメモだった。読んでみると、一度来たのだが、寝ているようなので川に行ってコンディションをチェックしてから戻ってくると書いてあった。
真はいつものようにシッティング・ルームに入ってソファに腰を下ろした。
昨日までは直ぐに暖炉に火を入れないと寒くてたまらなかったのに、この日はまるでまた夏が戻ってきたような暑さだった。
体にはまだ昨夜のアルコールが残っていて、何かをするという意志の力よりも強い力で、ここにこうして座っていることを真に選ばせていた。
しばらく真はそうしていたが、思い出したように立ち上がると、シャワー・ルームの方に向かって、ふらふらと歩き始めた。
最初にそれを発見したのはゴッドフリーだった。
ゴッドフリーは、その日の昼間、川にいた。
起こしても起きてこない真のために、最後の一日のための最もコンディションの良さそうなプールをチェックしておこうと思ったからだ。優秀なギリーであるゴッドフリーとしては、何としてでもゲストにサーモンを釣らせたいと思っていた。
そして、これは前日の報告をゴッドフリーから聞いていたトニーの指示でもあった。
トニーは、ゴッドフリーに、真に対して最も可能性のありそうなプールを提供するために、早朝にプールをチェックすることを指示していたのだ。
中流域を過ぎ、下流のプールに差しかかったときだった。
ゴッドフリーは、釣り人がプリーストでサーモンの頭を殴りつける音を耳にした。
スコットランドではキープできるサーモンを釣り上げたときには、直ぐにプリーストと呼ばれる鹿の角や金属でできたこん棒で頭を殴りつけて即死させてしまう。
プリーストというのは司祭という意味だから、引導を渡すということになるのだろうか。だが、この時間にこの辺りに釣り人が入っていることは考えられなかった。
数年前、夜陰に乗じて川に毒が流され、大量のサーモンが殺されるという事件があり、大きなニュースとして新聞に出たことはあったが、許可を持たない釣り人が無断で川に入ってきたことはかつて一度もなかった。
ゴッドフリーは音のした方に歩き始めた。
すると、今度はまた別の方から同じ音が聞こえた。
ゴッドフリーは訝しみながら脚を速めた。
音のした方に向かってゴッドフリーが近づいていくにつれ、その音は数を増していった。
頭を叩きつける音がそこここの岩陰から聞こえてきていた。
そして、サーモンが暴れるような水音も。
産卵床でサーモンの雄が雌を追うとき以外に、こんな激しい水音をゴッドフリーはそれまで聞いたことがなかった。だが、こんな下流でサーモンが産卵することもないはずだ。
ゴッドフリーが首をひねりながら視界を遮っていた大岩から顔を覗かせたとき、水しぶきを上げて何かが飛び出してきた。そしてそれはゴッドフリーの右頬をかすめ、直ぐ後ろの岩に頭からぶつかっていき、さっき聞いたのと同じ鈍い音をたてた。
それは雌のサーモンだった。
頭の辺りにシー・ライスと呼ばれる海虱の白い痕を無数につけ、腹一杯に抱卵したサーモンだった。
「おやおや、元気のいい奴がいるものだ」
と呟きながら岩に両手をかけ、体を持ち上げたゴッドフリーはその瞬間、体を凍りつかせたまま動くことができなかった。
ゴッドフリーの視界の中で、無数のサーモンが水の流れをたどることなく、水中に配置された岩に向かってノッキングを繰り返していたのだ。
さらに下流に目をやると、岸辺に向けて死のサーフ・ライディングが行われていた。
岸辺にはすでに累々たるサーモンの死骸。
その死骸の上をまだ生きているサーモンがあたかも上流に向かって泳ぎ上るような動きで跳ね回り、這い回っていた。岸辺の灌木の奥に、ゴッドフリーの気配を感じた小動物が逃げ込むのが見えた。
狐やイタチなどの肉食動物は夜行性のはずだが、人けがないのをいいことに、この降って湧いたようなサーモンの掴み取りのチャンスを見逃しはしなかった。
「毒だ」
とゴッドフリーは咄嗟に思った。ここしばらくはなかった毒流しがまたあったのだ。しかも、こんな昼日中に堂々と。ゴッドフリーは慌てて岩を乗り越えると、下流に向かって走った。そして、少し下流のまだ生きているサーモンを川に戻し始めた。だが、いくら必死になってゴッドフリーが頑張ってみたところで、サーモンの数の多さには追いつかない。川に戻すスピードよりも、陸に乗り上げてくるサーモンの数の方が多すぎた。夢中になって川岸を走り回るゴッドフリーの足元では、すでに暑さで腐敗し始めたサーモンが悪臭を放ち始めていた。何尾目かのサーモンを取り押さえようとしたとき、それは両手の中で身をくねらせるとゴッドフリーの分厚い胸に飛びついてきた。それを払い落とし、テイルを右手でしっかりと握り左手で頭を押さえ込んだとき、ゴッドフリーは小さく叫んでしまった。
「オー・マイ・ゴッド!眼がない!」
5-2
頭の部分には、海から戻ってきたばかりであることを示すシー・ライスがたっぷりと付いていた。
鼻の部分は繰り返した岩へのノッキングで傷つき、鼻の穴は潰れてしまっていた。そして、眼の回りには白い脂肪状のものが分厚く付着し、眼球が欠落していた。
毒はすでに回ってしまっていた。
ゴッドフリーの膝元にまた別のサーモンが飛びついてきた。水晶体と水晶液を眼孔から溢れさせ、鼻孔から頭部にかけての皮と肉の一部とが剥がれ落ち、頭部は真っ白に変色していた。
視線を上げると、後から後からサーモンが死骸を乗り越えて陸に這い上がってくるのが見えた。毒によって鼻と眼をやられて方向感覚を失ってしまっているのだった。
せっかく産卵のために遡上してきたというのに、途中、何処か河口の辺りで毒流しに遇ったに違いなかった。
ゴッドフリーは、近くの石を取り上げると、サーモンの頭に打ちつけた。
いつもの手応えはなかった。
サーモンの頭は、透明な飛沫を上げてゴッドフリーが打ち下ろした石をめり込ませた。 それでもゴッドフリーはその頭めがけて何度も何度も石を打ちつけた。 そのサーモンはテイルを震わせると、口を大きく開けて息絶えた。
何尾目かのサーモンの頭をそうして石で打ち砕いたとき、ゴッドフリーは両手が熱を帯びているのを感じた。
スコティッシュらしくごつごつと節くれだった自分の両手をそっと開いて見ると、両掌はまるで漂白剤で脱色されたような白い斑点が所々にできていた。
時間が経つに連れ、両掌はますます熱を帯びてくるようだった。 じっと見つめていると、白い斑点が隣の斑点とつながり、両掌一杯に広がっていこうとしているのが分かった。そして、斑点は、見る間に水泡状のものに変化していった。
「毒じゃない、これは。毒ならサーモンは水面に浮かんでくるだけだ。それに、毒流しの連中ならサーモンが売れなくなるような毒を使ったりはしないはずだ」
両手の熱に耐えきれなくなったゴッドフリーは立ち上がって川に向かって走った。
サーモンの死骸に脚を取られながら川岸に向かって走り、泳ぎ上ってくるサーモンを避けながら岸辺で手を洗った。
何度も何度も両手をすり合わせ、生まれてこの方やったことのないくらいに丁寧に手を洗った。
だが、両掌の白い斑点は一向に消えなかった。
消えないばかりか、川の水に触れた両手首から下の部分が、両掌と同じように白く変色していった。
変色した部分は掌と同じようにだんだんと熱を帯びはじめ、見る間に水泡状のものが幾つもできた。
水泡状のものは直ぐに腫れ上がり、軽く押しただけで中から透明な液体が溢れ出た。
ゴッドフリーは悲鳴を上げた。
真夏を思わせる太陽の光を受けて輝く灌木の間、サーモンの腐臭溢れる、水をなくした川の岸辺に、ゴッドフリーの大声が響き渡った。
ゴッドフリーはエディンバラの病院に入院することになった。
眼のないサーモンを最初に発見した真も同時に診察を受けることになった。診察の結果はただの裂傷だった。
結局あのサーモンを釣り上げることができなかったことが真にとっては幸いしたことになる。ゴッドフリーの傷のような症例は、今まで報告されていなかった。 最初は何らかの薬品による汚染が原因だろうという医者の話だった。
しかし、ゴッドフリーの傷の状態は一向に快復しているようには見えなかった。
一瞬にして皮膚を溶かしてしまう薬品といえば硫酸のようなものということになるが、海から遡上してきたサーモンを触っただけで一瞬の内に漂白されるというような症例が残っているはずもなかった。
ここ数年の北海の汚染はひどく、イギリスの朝食に欠かせない、キッパーズをつくるためのニシンの水揚げは減少していたし、フィッシュ・アンド・チップス用のオヒョウやタラなども北欧からの輸入に頼るようになっていたし、毎年のようにアオギと呼ばれる赤潮や青潮も頻繁に発生してはいた。
だが、魚の眼が消失したり、体が溶けたりしたという話は初めてのことだった。
医者は原因究明に頭を抱えていた。
5-3
数日後、真はドーンと一緒にゴッドフリーを病院に見舞った。医者から来てくれるようにと電話があったからだ。
病院に行くと、医者は真だけを別室に連れていって、数枚の写真を見せた。
その写真は、ゴッドフリーの傷の写真だった。ゴッドフリーの両肘から下は皮膚の色が真っ白に変色してしまっていた。たった数日の間に、ここまで悪化していたのだ。
それは、ちょうど、貴婦人の白い長手袋をしているように見えた。 医者は、日本人である真に対して、ゴッドフリーの症状が放射能被曝の症状と似ているかどうかを確認したかったようだった。それは、真には初めて見る症状だった。そのことを医者に伝えると、医者は黙ったまま真の目を見てうなづき、ゴッドフリーの傷の症状について手短かに説明すると、ゴッドフリーの病室に案内した。
ガラス張りの部屋にゴッドフリーは隔離されていた。
両手には包帯が巻かれ、天井から吊り下げられていた。
病室には腐臭が漂っているように思えた。
ゴッドフリーは真の顔を見ると笑いかけ、両手を上げて照れ隠しをするような仕種を見せた。
医者は銀色の衣服に身を包むと、病室に入っていってゴッドフリーの包帯を解いた。
真は笑いかけるゴッドフリーの眼からその方向に視線を移すのにためらいを感じた。
そこには、写真で見たのと同じ、白い長手袋をしたゴッドフリーの両手があった。
病室に立ち込めているだろう薬品の臭いに混じって、ゴッドフリーの傷が発しているだろう微かな腐臭を、真はそのとき鼻孔に感じた。真は、喉の左右から滲み出してくる酸っぱい液体を飲み込んだ。だが、直ぐに口の中一杯に込み上げてくるものが満たした。
思わず口に当てた右手の指の間から、黄色い液体が溢れ出てきて病室の床に滴り落ちた。真が上目遣いにガラス越しにゴッドフリーの方を見ると、真に向かって微笑んでいるのが見えた。
百三十年のサーモン・リバーの歴史が終わろうとしていた。
トニーがこの川の八代目のオーナーになってから、この川に上るサーモンもシー・トラウトも少しずつだがその数を増していっていた。
そして、愛情を込めてこの川をデザインしていったことによって、サーモン・フィッシャーたちの間でも評価が高まり、有数のサーモン・リバーとしての名声を獲得しつつあった矢先の出来事だった。
眼のないサーモンは、トニーの川だけでなく、リバー・スペイ、リバー・テイ、リバー・ディー、リバー・ツイードにも上っていた。
スコットランドだけではなく、アメリカの東海岸でもそれは確認された。
サーモン・リバーが消滅しようとしていた。
アトランティック・サーモンがこの地球上からその姿を消そうとしていた。
大地を焦がすように照りつけていた真夏のような太陽はまたも厚い雲に覆われ、気温は急激に低下し、その雲の間からもれる数条の光だけが地上に届いていた。雨はあれ以来降らなかったが、すでにハイ・ランドは初雪に覆われていた。
ゴッドフリーが入院してからすでに一週間が経っていた。
時間の経過は女性をして現実的な対応に向かわせる。
この一週間の間に、ドーンは冷静に事態を見極めていた。
命に別状はない。
最悪でも、両手首を切断するだけで助かる。
ドーンはそう読んでいた。
女性にとっての命の意味とは、どんな形であったとしても、生きている状態にあるということなのだ。まして、最愛の夫であるゴッドフリーとの間に育まれた愛によって、自分の胎内にもう一つの生命を宿しているドーンにとっては、ゴッドフリーが生きて存在し続けることを望まないはずはなかった。
ゴッドフリーの症状はゆっくりだが快復していった。
そして、サーモン・リバーに対する施策は迅速に決定された。
全てのサーモン・リバーは河口を封鎖され、コンクリートで固められることになった。
5-4
いよいよコンクリート工事が開始されるという前日、ゴッドフリーは退院を許されて戻ってきた。
ゴッドフリーの退院を待ちわびていたトニーは、真と、二人のリバー・キーパーとゴッドフリーにその日の夜、ロッドを持って正装で川に集まるように言った。
真は両手の使えないゴッドフリーの代わりにゴッドフリーの車を運転して川に向かった。
集合場所は、トニーズ・ストリーム。
このプールだけは昔から名前のついていなかったところへトニーが自分で名前をつけたのだ。
このプールだけは、百三十年の歴史の中でもたったの一尾もサーモンが釣り上げられたことがないという、歴史的なプールだった。それもそのはずで、このプールはトニーの川の中でも最も浅く、釣り人がここを渡って川の反対側に出るための通り道にしていたのだった。
名前がついていないのもうなづける。だが、トニーがジョークとして、誰が釣ってもトニーのように釣れる凄いプールというつもりでつけた名前なのだ。
真とゴッドフリーが車から降りると、プールにはもう全員が揃っていた。
川の両岸に立っている灌木の向こうに、厚い雲から抜け出した夕日が沈み始めていた。暮れなずむ夕日は、細い線状に水平に延びた空を真紅に染め、雲に残照を投げかけ、両岸の木々を黒くシルエットに浮かび上がらせ、流れの途絶えかけた川岸を同じ色に染め上げていった。
真が初めてシー・トラウトを掛けたいつかの夜のように、大きな月が右岸の灌木の間から昇り始めようとしていた。
トニー、真、ゴッドフリー、そして二人のリバー・キーパーの五人は、ちょうど二つの流れが合流するプールの辺りに下流を向いて腰を下ろした。 トニーは黙ったままウィスキーをスキットルから飲んでいた。 全員が思い思いのアルコールをスキットルから黙って飲んでいた。
「ヘイ、シン。今夜はレディの夜会服でも着てくればよかったな」
ゴッドフリーが悲しいジョークを言う。
包帯に覆われたゴッドフリーの両手は、まだフライ・ロッドを握ることはできない。
だが、握ることができないのは真にとっても同じことだった。
サーモン・リバーは故障した原子力発電所のように、コンクリートで固められてしまうのだ。もう、サーモンが川を上ろうとしても上る川はなくなってしまうのだ。
サーモン・フィッシャーは釣るべき魚をなくそうとしていた。
サーモン・フィッシャーは、サーモンという、人生を賭して追いかけるに値する対象をなくそうとしていた。
サーモンが今、上るべき川を閉ざされようとしているように、真もまた、辿るべき路の行方がふっつりと断ち切られてしまったことを感じていた。
誰も何も喋らなかった。
夏の宵のこの時間は、上ってくるシー・トラウトがたてる大きな水音を聞きながら、酒をかたむけるレスト・タイムだった。
そして、オーナーのトニーにとっては、新しいアイデアを盛り込んだ川のレイアウトの構想を翌年に向けて練るための、人生において最も充実した時間であった。
サーモン・フィッシャーにとっては、今シーズンの釣果を顧みるとともに、来シーズンの再来を誓い、最後の別れを川に告げるときでもあった。
誰もが黙ったままスキットルを口に運び、それぞれの思いを込めてじっと川の水音に耳を傾けていた。
トニーは一息深い息をついて立ち上がると、自分のフライ・ロッドを持って川に下りて行った。残りの男たちもそれに従った。 トニーと残りの四人は岸辺に並び、川に向かってスキットルの酒を注いだ。
月の光がトニーの頬に伝う一条の流れに反射した。
月はますます高く昇り、夜空は紺色に沈み込んで行った。
頼りなげな水音をたてて、川は闇の中を流れていた。
やがて、いつの間にか水面に水滴が落ち始めた。月が出ているというのに、雨が降り始めたのだ。
雨は、川岸に佇む五人の肩に黒い染みをつくりながら雨足を速めていった。
雨は、月明かりの中に浮かぶトニーの頬の涙を覆い隠して降り続けた。
その雨は、トニーの顔も、ゴッドフリーの顔もすっかり濡らし、月明かりが反射するほどの強い雨だった。
真がゴッドフリーの顔をハンカチで拭いてやろうとしたそのとき、下流のプールで大きな水音が上がった。五人の誰もが自分の耳を疑った。
「サーモン?まさか」
誰もが心の中でそう思った。
河口はすでに厳重に魚網による封鎖が完了している。
一尾のサーモンもここまで上ってくることはできないはずだ。
五人は月明かりに透かすように、ほんの少しだけ水をたたえたトニーズ・ストリームを凝視した。
突然、少し下流の雨に叩かれて水しぶきを上げる水面が大きく割れた。その生き物は、朧月を背負い、真っ赤なスポーニング・カラーに染まった魚体を曝してジャンプした。
間違いなかった。
間違いなくそれは、サーモンだった。
それは、五人の足元の微かな流れを遡上して産卵場所に向かおうとする雌のサーモンだった。月光に身を踊らせ、まるで一番乗りのサーモンのように、その魚は五人の目の前でジャンプして見せたのだった。
河口の堰をくぐり抜けてここまで上ってきたサーモンがいたのだ。 その雌のサーモンは、その魚体を浮かべるには余りにも少ない、川床がむき出しになってしまった水の中を、必死に泳ぎ上って行こうとしていた。
真は咄嗟に一歩を踏み出していた。だが、それを制してトニーが言った。
「シン、行かせろ。最後の川上りだ。生かしてやれ、最後まで」
その雌のサーモンは、最後の力を振り絞り、五人の目の前を泳ぎ過ぎて行こうとしていた。
川床の石に体を擦りつける度に、魚体の一部が剥離していき、川の流れが皮と肉の一部をはぎ取っていった。川の流れはテイルを奪い、背骨の一部を露出させていった。鰭をなくしたサーモンは、それでも、体をくねらせながら、上流の産卵場所を目指して泳ぎ上って行こうとしていた。





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