醒めない夢




序章 




序ー1

桜鱒のシーズンが終わり、なす術もなくその日その日をやり過ごしている沢田に、岩井から電話が入った。岩井とは長い間渓流釣りを一緒にやっていたのだが、最近ではもっぱら夜の釣りばかりやっている岩井に沢田は愛想づかしして、単独での釣行が増えていた。酒の誘いなら断ろうと、岩井の第一声を聞いて沢田は思った。

「いい話があるんだが」


「夜釣りはお断りだ」


「違う違う。岩魚だ」


「俺はもうジャコ釣りはやめたんだ。今は桜一本だ」


「で、駄目だったんだろうが、今年も」


「こんな晴天続きじゃな。雨が降らなきゃ、話にならんよ」


「へへえ、だからだな、岩魚なんだよ。それも、六十センチオーバーの」


「そんな岩魚、今じゃもう年に一匹釣れるかどうかだろう」


「へへえ、それがだな、いるんだよ、ウジャウジャと川中に」


「それ位のサイズになりゃ、湖だろ。餌かルアでなきゃ釣れない。毛針でなきゃな」


「心配御無用。ちゃんと毛針で釣れるんだ」


「どの川の話だ。いつの話だ」


「どの川かは言えないが、去年の秋には確認してる」


「で、今年はもう終わりって話じゃないのか」


「大丈夫、まだ誰も知らないんだ」


沢田は鼻白んだ。誰も知らない情報などこの世にありはしない。絶対に儲かる話などありはしないのと同じだ。とりわけ釣りに関する情報のいい加減さときたら、他に比べるものがないほどだ。先週大釣りしたからといって行ってみても釣れた験しはない。釣れたということは、もう釣れないということだ。誰も知らないことを岩井が知っているというのなら、他に何人かが知っていても不思議ではない。


「誰も知らないってどうして分かるんだ」


「どこにも載ってない情報だからだ」


「どこにも載ってないのにどうして知ってるんだ」


「取材で行ったんだよ、去年。ちょっとした撮影だったんだが、あんまり渓相がいいんで川原まで下りてみたんだ。ところがだ、いるんだな、ウジャウジャと。六、七十センチはありそうな奴が淵にたまってるんだ。最初は虹鱒かと思ったんだが、丸々と太った岩魚なんだ。斑紋があるし脂鰭もしっかりあるのを確認した。写真もちゃんと撮ってある。俺は驚いたね。お前に見せたかったよ。で、その後川伝いに戻ってくる途中、漁協に寄って尋ねてみたんだ。毛針で釣れるかどうかってな。そしたら、あれは岩魚じゃなくって鮎だって言うんだ」


「鮎」


「そうだ、落ち鮎だって言うんだ。三十センチの落ち鮎なら分かるが、六十センチの落ち鮎がいるわけないだろ。で、俺は言ってやったんだ。俺は釣り師ですぜってな」


「で、連中はどう言ったんだ」


「結局、岩魚だってことになったんだが、絶対に誰にも言わないでくれって言うんだ」


「自分たちだけで楽しもうって腹なんだな」


「俺もそう言ってやったさ。ところがだ、これが違うんだな。今、実験中なんだって言うんだ」


「実験中。何の」


「温水に岩魚が育つかどうかの実験中なんだと」


「どこの川なんだ」


「だから、行くのかよ行かねえのかよ。俺しか知らないんだぜ」


「何時だ」


「今晩から」


「やけに急だな」


「思い立ったが吉日だろうが」


「そりゃそうだが」


そう言いながら沢田は今日の予定を確認すべく手帳を開いてみた。週の始めだというのに、予定表は白いままだ。殆ど真っ黒になっていた頃が懐かしいくらいの不景気だ。沢田は広告の企画をして飯を喰っているのだが、ヨーロッパの不況に遅れてやって来た構造不況のせいで、花形産業と言われた業種から不況業種に指定され、今や交通費・交際費・広告費という企業の経費節減対象費目として3Kと呼ばれる業種になってしまっていた。急なクライアントからのお呼びがかかることはないだろうことは想像できた。岩井と一緒に渓流釣りに行っていた頃は岩魚もよく釣った。尺岩魚を掛けようと、黒部通いをしたこともある。秋田にまで車を飛ばしたこともある。が、はかばかしい結果を見ないままに桜鱒に転向してしまった。釣り人の増加による魚の減少に加え、砂防堤・堰堤・護岸工事によって渓流が年々荒れていくのを見るのが堪らなくなったことが大きな理由だった。


「幻の尺岩魚じゃなくって、現実の二尺岩魚だぞ」


岩井が追い打ちをかけてくる。


「分かった。どこのインターにするんだ」


「いや、俺が迎えに行ってやる。新車を買ったんでな。夜中に出発だ」


「景気のいい話だな。どっちに来てくれるんだ。オフィスか、家の方か」


「家の方が高速に乗りやすいな」


「分かった。じゃ待ってるぞ、遅れるなよ」




序ー2

久し振りの岩井からの電話に沢田は不思議な興奮を覚えた。

ネオンの川の釣りではなく渓流の釣りに行く前の興奮には違いなかったが、二尺岩魚がウジャウジャいる川が一体どこなのかという興味のせいもあった。

なぜなら、沢田の知る限りそんな川はもうとっくにこの国から消え失せているはずだからだった。

沢田は道路地図帳を取り出してデスクの上に広げた。

各頁はそれまでの釣行の度にめくったせいで、頁の端の真ん中が手垢に汚れている。そしてどの頁にも、川に最も近い高速道路のインターチェンジが丸で囲んであり、目印になる建物の名前が書き込んであり、川のポイントには釣れた日時、魚の種類、サイズ、使用した毛針が、赤や黒や緑や青といった、そのとき持っていた筆記道具によって書き込まれている。

岩魚というからには東北地方がメッカのはずなのだが。

沢田は頁をめくって東北地方の県に目を通す。秋田か青森か岩手か。が、すぐにしかしと思う。この地方でこの時期にはまだ釣りをすることは不可能だ。異常気象で温かいといっても一面の雪のはずで、解禁になっているといっても、岩魚が毛針に跳びつくようになるには早すぎる。

四国か、九州かならすでにシーズン真っ盛りの釣りになっているが、岩魚はいない。 となると中部ということになるが、ここも雪がまだ残っている。

岩井によると、温水になじませる実験をしているということだから、温泉があるということか。温泉で有名な中部地方の川ということになると、下呂、平湯、新穂高、湯涌辺りか。 だが、この辺りで大岩魚が釣れるという話は聞いたことがないが。


沢田は想像を打ち切る。

誰も知らない川があるとは思えないが、今は岩井しか知らないのだからまかせておけばいいのだ。それよりも、岩井が来るまでにしておかなければならないことがある。桜鱒用のタックルでは岩魚を釣ることはできない。

そうだ、毛針も巻いておかなければ。春の毛針といえば20番前後のミッジということになるが、それよりもウェットかもしれない。 いや、まだまだニンフの季節かもしれない。

大岩魚ということになると、やはり14番か12番くらいの毛針が必要なのでは。マーチブラウンあたりの毛針でいいのだろうか、それともシンセティックマテリアルの方がいいのだろうか。 ロッドは4番では頼り無いだろう。せめて6番かもしかすると7番がいるかもしれない。

リーダーは5Xか4X、ティペットも4X程度は必要だろう。


沢田はデスクの下からマテリアルボックスを取り出す。

ハックルケープ、ダビング材、種々の獣毛、フック、スレッド、ボビン、針を固定するためのバイスなど、ボックスの中には毛針を巻くためのあらゆる材料が収まっている。

以前は家で巻いていたのだが、子供が生まれたとき、その毛や綿埃が子供に良くないと妻が言うのでオフィスにごっそりそのまま持ってきたのだ。それ以来、ずっとそこに置いてある。

オフィスにある方が気儘に巻けるし、鶏の首の回りの羽根であるハックルケープが鶏を丸ごと十羽も買える値段であることに気づかれなくて済むようになったのがラッキーだった。

が、その妻も今はいない。

つい先日、子供を連れて出て行ってしまったのだ。上手い理由を見つけて慰謝料暮らしをしていこうとしているらしい。

フィッシングウィドゥの逆襲も月並みな類型を見せる。結婚するまではいつも一緒に釣りに行っていたのだが、どうやらそれは毛針ではなく、生餌だったようだ。


そして、デスクの引き出しを開ける。

今までに巻いた毛針がデスクの一番下の引き出しに入っているのだ。 毛針はその種類・サイズごとにボックスに整然と収まっている。

ボックスは全部で七つある。沢田はその全部をデスクの上に広げると、その中からミッジのボックスとウェットのボックスとを手前に引き寄せた。ミッジは毎年一番に解禁になる長良川のシラメ用の毛針だ。

ユスリカのドライにピューパにラーバ。

本当に虫みたいに小さな毛針だ。

頼り無いな、こんな釣りはもうごめんだな。

沢田はそう呟きながらミッジのボックスをデスクの上に放り投げた。ウェットは水中に沈めて使用する毛針だ。

沢田はナチュラルマテリアルでリアルに巻いたこれらの毛針が気に入っている。

発砲スチロールにフックサイズごとに並べられた毛針のいくつかの針先の部分から錆が出ているのが見て取れた。このボックスも長い間開けたことがない。

桜鱒にとりつかれて以来。

沢田は、おもむろにバイスを取り出し、14番のウェット用フックを固定して一思案するとスレッドで下巻きを始めた。




序ー3

岩井は受話器のボタンをオフにすると、女の体から離れてシャワールームに向かった。シャワールームに向かう通路で、自分の下半身から立ち昇ってくる女の甘酸っぱい体液の匂いを岩井は鼻に感じた。

シャワールームに入って温度を熱めに設定してお湯をかぶる頃には、その匂いの刺激は性器に作用して勃起していた。

シャンプーをしようと思ったところに、女が入ってきた。

深く眠っていたように見えたのだが、岩井がベッドから抜け出した布団の隙間が女に岩井の不在を知らせたようだった。

女はもうとっくに四十をすぎているはずなのだが、しっかりと張った胸と腰をしている。岩井は性器を見られたくなかったので、女に尻を向けて後ろ手でシャンプーを取ろうとした。

すると女はその手を取り自分の性器にあてがい、もう一方の手を岩井の脚の間から滑り込ませてきた。

岩井の指は女の手に導かれて女の性器の突出した部分から奥へと進む。 女の性器はまだ膨張したままで、岩井の指の侵入を快く受け入れている。 女の手は前立腺の辺りからまさぐる動きで男根に到達し握りしめる。 女が体を背中に寄せてくる。

その動きで岩井の指はより深くもぐり込み、女の手は、より強く握りしめる。

女がシャワーの湯煙の中で岩井の背中に密着する。

女の張りのある乳房が背中に押しつけられているのが分かる。

女は岩井の首筋に厚めの唇を押しつける。

岩井はもう一方の手で女の尻を抱く。女の陰毛が岩井の尻に触れる。 岩井は男根を握っている女の指を外して、女の突起物を中心にして体を回転させ正面に向き直る。女の性器から指を抜き取りしゃぶって体液の分泌を確認してから、女の臍の辺りに押しつけられている男根を女の脚の間に挟み込む。勃起しきった男根はさっきの行為による痛みを根元に残しながらも女の脚の間に息づいている。

岩井は女を強く抱き寄せ少し腰を屈めるようにして男根を女の体の中に収める。


ヌードを撮ってやろうか、というのが誘い文句だった。

そう、岩井が女に言ったときの女の体は精悍そのものだった。今は少し皮下脂肪がついてきて、歳相応の体になってきた。

不安は女を太らせるというが、岩井の存在は、女に安心感を与えているとは言いがたかった。女が、別れましょう、と言うまでのつき合いの仕方が岩井のやり方だった。


「どこへ行くの」


「釣りだ」


「誰といくの」


「うん、沢田っていう、俺の釣り友達だ」


「聞いたことないわ」


「ああ、久し振りなんだ、奴と一緒に行くのは」


「そう、気をつけてね。ちゃんと帰ってきてね」


「何を言ってるんだ。ちゃんと帰ってくるに決まってるじゃないか」


岩井は女の唇を自分の唇でふさぐ。もう、別れましょう、という言葉が女の口から出てくるのを防ぐために。

そう女が思っていることは岩井には分かっている。だが、いつも岩井はそれを避けてきた。庇護されることが叶わぬことを悟った女は、必ずいつもそう言って岩井の元を去って行った。新しい別の庇護してくれる男を探すために。


女のマンションを出た岩井はランドローバーでスタジオに向かった。 前日にやった撮影のアガリが現像所から届いている頃だった。 それをチェックして、ポジセレクトをやっておかなければならない。チープなカナダのモデルを使ったために少し気になったのだ。

不景気なのと円高のせいでヨーロッパやアメリカのモデルがめっきり減ってしまった。モデルのギャラはそっくりそのままアガリにつながる。しっかり動けるモデルなら一時間もあれば終わってしまう撮影も、昨日モデルクラブに登録しましたというような奴を使わざるをえないとなると一日かけてもいいアガリは期待できない。

スタジオの前に車を停め、ドアを開けると、アシスタントがすでにライトボックスの上にポジを並べて待っていた。


「どうだ」


「はぁ」


顔に再撮と書いてある。


「冗談じゃねぇぜ、予算、ねえんだろ」


岩井はライトボックスの前に座り込み、30ロール分のポジに目を通す。全部同じポーズ。


「これだけか」


「はぁ、届いたのはこれだけですが」


「あと1ロールあるだろ。ほら、最後にお前がシャッター切った分」


「えっ、あれですか。あれはダメでしょう」


「いいから、見せてみろ」


岩井は、アシスタントがおずおず差し出す1ロール分のポジをひったくりライトボックスの上に叩きつける。

買っておいたフィルムが一本余ったので、アシスタントにシャッターを押させた分だ。確か、モデルがリラックスしていたときにシャッターを押した奴が2、3カットあったはずだ。

素人モデルは素人が撮ったときに素直ないい表情を見せるときがある。 最後の2カットにそれはあった。

素人のくせに、フィルムの枚数だけは頭で勘定していたらしい。終わりが近づくにつれて表情が自然になっているのが分かる。岩井は、ダーマットでその2カットに印をつけると、マウントしてショーレックスに入れてクライアントに届けておくようアシスタントに指示すると、スタジオを出て行った。




第一章



1-1

沢田が二杯目の赤ワインをグラスに注ごうとしたとき、マンションの下でクラクションの音がした。時計を見ると十一時五十五分を回ったところだ。岩井だ。夜中にクラクションを鳴らすなよな、そう呟きながら沢田は道路側の窓を開けて下を見た。闇の中にヘッドライトをアップにしたまま停まっている車が見える。沢田は手を振って上に上がってくるよう岩井にゼスチャーしたが、岩井は見ていないようだった。煙草でも吸いながらCDでも聴いているのだろう。沢田は仕方なくテーブルの足元に置いてあった荷物とロッドケースを二本左手で抱え、ダイニングルームの壁に向かって右手の中指をあげて部屋を出て行った。壁には、FUCK YOU!と赤い文字で書きなぐってあった。沢田が家に戻る前に子供を連れて出て行った妻がトマトケチャップで書いたものだった。同じことが床中にも施してあって、沢田は仕事で夜遅く戻ってきて部屋に入り、電気を点ける前に滑って転んでしまった。妻はトマトケチャップが大好きだったが、あれ以来、沢田は大嫌いだったトマトケチャップが殺意の対象になった。

「遅いな」


車に近づくと岩井がパワーウィンドーを開けて睨む。


「遅いなって、お前、上がってくるように手、振ってただろ」


「知るか、そんなこと。用意はいいのか」


岩井は直ぐに車を動かす。相変わらず荒っぽい運転だ。


「ああ、6番と7番持ってきた」


「フーン。毛針は」


「全然分からないから、全部持ってきた。二尺岩魚なんて釣ったことないもんな」


「フン、いいだろ。直ぐに分かるさ」


「方角はどっちだ」


「そこから高速に乗るんだから分かるだろうが」


「まあ、そうだな。で、何て川なんだ」


「塩味川。塩に味だ」


「聞いたことないなぁ、そんな川」


「ま、まかしておけよ」


「おい、お前、酒臭いぞ。お前と一緒に事故るのはごめんだぜ」


「心配すんなよ。こいつは二百も出やしねぇよ」


「何だお前、宗旨がえかよ。フェラーリはどうした」


「バブリーな車はやめたんだよ。エコロジーに転向よ」


「売ったのか」


「売れねえ。値下がりしちまって。車屋の奴、下取りもできねぇとよ」


「そうか。でも、釣りに行くのならこれは最高だろ。レインジローバーだと厭味だけど」


「そうだな。で、嫁はどうしてんだ」


「出て行った」


「何が原因なんだ」


「分からんね。お前はまだ独りのまんまか」


「お前みたいに軟弱じゃねぇんだよ、俺は。女と対等につき合おうなんて俺はしないね。遊ばして貰って棄てて貰う。それが男の生き方よ」


「なるほどな。棄てちゃ可哀相だと思うところが思い上がりなのかもな」


車は直ぐに高速道路に入り、トラックばかりが走る三車線のレーンをキープライトで走り続けた。まるで都会から逃げるように。そして、現実から逃げるように。


「どれくらいかかるんだ、その川まで」


「まぁ、五時間ってとこかな。途中、一回休憩してもそんなもんだろ」


「どこで下りるんだ」


「秘密だよ。まかしておけよ」


「もう、隠すことはないだろ」


岩井は笑ったまま答えようとしない。二時間ほど走ってから、岩井は休憩を入れた。飲んだアルコールとコーヒーとを入れ換えるためだ。またも直ぐに車は走りだす。釣行の釣り師はストイックである、というのを画に書いたような走りだ。快適な走りは沢田に眠気を催させた。車の揺れで気がつくと、川沿いの暗い地道を走っていた。




1-2

「おい、どこなんだ」

「塩味川だよ。よく寝てたな」


「どうして起こしてくれなかったんだ。どのインターで下りたんだ」


「心配するな、俺がちゃーんと連れてってやるから。それよりな、沢田、この川は今はもう塩味川じゃねえんだよ」


「どういう意味だ」


「塩味川って読んで字の如しで塩味がするってことだろ。つまり、しょっぱいわけだ。だから、魚は一匹も棲んじゃいねぇんだ。この川じゃ一匹の魚も捕れたことはねぇんだ」


「ほう」


「ところがだ、去年の秋から魚の飼育が始まった。おまけに今までなかった漁協までができたんだ。なぜだと思う」


「なぜだ」


「実はな、この川の上流には岩塩の採掘で栄えた村があるんだ。今じゃ塩化ナトリウムを塩だと思ってる奴の方が多くなって、採算が合わなくなっちまって採掘はやってねぇんだがな。去年の秋にこの村にある施設ができたんだ。俺はそれを撮影しに去年ここまで来たってわけだ。そして、二尺岩魚を見た。つまり、今は淡水になってるって訳だ」


「なるほど。だから、もう塩味川じゃないっていう訳か。淡水化装置ができた訳だな」


「いや、発電所だ。あの発電所は上流のダムから水を引いて、真水にして流しているらしいんだ。それをアピールするために漁協をつくって岩魚を放流したわけだ」


「なるほど。で、それの実験中だからまだ誰も知らない訳か。元々一匹も魚が居なかった川ならますます誰も知らない訳だな」


「そういうことだ。俺たちが初めての釣り師って訳だ」


「イャッホー」


「ワッハッハッハッハッ」


岩井の運転するランドローバーは夜明け前の塩味川の川沿いの真っ暗な地道をローリングやピッチングを繰り返しながら走り続けた。 闇の中に、時々ライトの光に照らされて獣の赤い眼や青い眼が浮かんでは消えた。


「それにしても、ひどい道だな」


「もう少しで村の境界だ。そこから急に道が良くなるんだ。現金なもんさ。電力会社のやることは徹底してるぜ。村一つ買い上げた訳だからな」


岩井の言うとおり、直ぐにアスファルトの二車線の道に変わった。さっきまでの地道が嘘のような変わりようだ。

少し走るとゲイトが見えてくる。ゲイトは開いたままになっていた。 ゲイトを通り抜けると、川の側には白いガードレールが現れた。まるで、国道並みの整備の仕方だ。


「で、その村の連中は漁協で働いてるのか」


「いや、漁協だけじゃいくらなんでもまかないきれないんで、発電所や、漁協の研究所で働いてるそうだぜ」


「研究所って」


「うん、だから、温水に岩魚が棲めるかどうかとか調べてるんじゃないのか」


「漁協の研究所も、その電力会社が金を出してるのか」


「きっとそうだろう。去年はまだ建設途中だってことだったけどな。温水のせいで稲の成長もいいらしいぜ。さあて、もうすぐだぞ。あの橋を渡ったところに漁協がある。まだ開いてねぇと思うから、釣り終わってから行ってみるか。まずはダムの辺りまで車で行って、支度をしてここらまで戻ってから川に入ろうぜ」


「そうだな。まだちょっと早いな」


ランドローバーは、少し走って発電所前の駐車場に停まった。

目の前にはダムがそそり立ち、ダムからは送水用のパイプが発電所に延びている。おそらくこのダムの上は塩水が一杯溜まっていることだろう。

この塩水を淡水化装置で真水にし、発電しているのだろう。

そして、温かくなった真水を川に放水することで、地域の活性化を図るとは上手いことを考えたものだ。これじゃ、村人は何も言えないわけだ。

しかも、岩魚もそのせいで育ちやすくなったということなのだろう。大資本にはかなわないな。沢田は車を降りながらそう思った。


「オイ、早く用意しろよ。朝マズメに間にあわないぞ」


岩井が急かせる。岩井はチェストハイウェーダーを着け、もうロッドをセットしている。沢田も負けじとゴアテックスのウェーダーを着け、ウェーディングシューズを履く。

川幅の感じから6番のロッドを選んでセッティングした。

すでにかすかな薄明かりが射し始めていた。

時計を見ると午前四時二十分だった。今から漁協のある辺りまで歩いて行って川に入る頃にはちょうどいい時間になるはずだ。 朝五時からのマズメを釣るという渓流釣りの典型が始まろうとしていた。

二人は川沿いのアスファルトの道を心を弾ませて歩いて行った。 かすかな薄明かりは、徐々にその明るさを増していき、回りの風景を水墨画からセピア調の写真へと変えていった。

向かいの山側の方の杉林の陰に、何かの施設らしいものが浮かび上がってくる。




1-3

「あれは」

「ああ、あれが研究所だろう。やけに立派な建物だなぁ。やりすぎじゃないか」


「金はこんなところに遣われてるんだなぁ。今度、村おこしのプレゼンでもしに来なきゃな。村役場はあるんだろ」


「ああ、漁協の建物と一緒に村役場と農協の建物も作ったらしいからな。下まで行ったら分かるんじゃないか」


「丸ごと新築かよ。まるでコミューンだな。これだけオンブにダッコじゃ誰も文句も言えないな」


「そりゃそうさ。夢の農村が誕生したわけだからな」


「それにしても、この村の話は聞いたことがないなぁ」


「だから、まだ実験中だからだろ」


「実験中でも人集めの誘致合戦なんかありそうなもんだけどなぁ」


「そこがこの村の偉いところなわけだ。バックもついてるし、しっかり実験してから、ドーンとやるつもりなんだろ」


「なるほどね」


しばらく下っていくと左手に漁協の建物が見えてきた。漁協というには不似合いなくらい立派な三階建てのビルだ。屋上には衛星放送受信用のアンテナまで付いている。しかし、入口にはいかにも村の漁協らしい杉板の看板が掛かっていて、「愛想村漁業協同組合」と書いてある。その隣には立て看板で「愛想村事務所」「愛想村農業協同組合」と書いて矢印がついている。どうやら、この奥にあるらしい。


「へぇっ、あいそ村って言うのか」


「あいそ村。おかしいな、確か、塩味村だったと思うけどな」


「ははぁ、もうやってるんだ。村おこしで名前を変えたんだな。ほら、何とか共和国とか言ってパスポートを作ったりしてる村があるだろ」


「参ったね。おい、ここだ。ここから下りるんだ」


岩井が川に下りる道を指し示す。漁協の真ん前から下りやすい石段の道がついている。回りはかなり明るくなってきた。川までの急斜面を下って行くと、かなり深い谷であることが分かった。十分ほどして二人は川岸に立っていた。川面から立ち昇っている水蒸気が、水温の高さを示している。


「何だこれは」


岩井が大声を上げる。


「こんなものなかったぞ」


下りて直ぐ右手にフェンスが見えた。フェンスは川の中を横切り、谷の両斜面にかけて設けられていた。しかも、そのフェンスには「高圧電流危険」というプレートがついていた。沢田は頭上を仰いだ。高圧電流を運ぶ電線も鉄塔も見えなかった。


「くっそぉ、この直ぐ上流なんだ、岩魚が泳いでいたのは。参ったなぁ、どうする」


「どうするって、フェンスを使って高圧電流を送ってるんじゃどうにもならんだろ」


「下流に行ってみるか」


「下流だとウェットだな。持ってきたか」


「ああ、全部持ってきたからな」


「俺はドライ一本でやろうと思ってたんだが」


「そうか、水が温かいもんな。ドライでいけるよな」


「でも、ドライで釣り下るってのはなぁ。いまいましいフェンスだぜ」


と、岩井が言ったとき、フェンスの少し先の大岩の隣にできた波紋を沢田は見逃さなかった。それは岩井も同じだった。岩井はニヤリと笑うとフェンスの方に歩き始めた。沢田もそれに従った。波紋は一つ二つと浮かび上がっては消える。大岩の直ぐ後ろの辺りで魚がフィーディングを繰り返しているのが分かる。波紋からすると、かなりの大物に違いないようだ。


「おい、気をつけろよ」


フェンスに近づこうとする岩井を沢田は制して言った。岩井は近くに積み上げてあった下刈りの山の中から手頃な大きさの枯れた枝を取り上げ、沢田に下がるように言ってフェンスに向かって放り投げた。枝は、バリバリッと大きな音を立てて、飛び散らなかった。カサッと乾いた音を立ててフェンスの直ぐ下に落ちた。次に沢田も同じことをした。やはり何も起こらなかった。二人は顔を見合せると、ロッドを横にしてそれぞれの口にくわえ、軽々とフェンスを乗り越えて行った。




第二章



2-1

大岩までは二十メートルほどの距離だ。二人は、朝露に輝く川岸を腰を屈めゆっくりと近づいて行く。川面から立ち昇る水蒸気が、川を温泉かと思わせるほどだった。夜は殆ど明け、ブルーの色彩が辺りを覆いつくしている。

「塩味川というよりは、湯川だな、ここは」


「本当だ。かなり温かいようだな。茹だって真っ赤な岩魚が釣れるんじゃないか」


「何を喰ってるんだろうな」


二人は、波紋の辺りを透かして見る。

小さな魚は追っ掛け回して餌をとることが多いのだが、大物になってくると、餌場を決めていて、殆ど動かずに口だけ開けて餌をとるようになってくる。旨い餌が流れてくる場所を知っているのだ。

餌の少ない春先というと、ユスリカの幼虫であるラーバやさなぎであるピューパ、羽化直前のフローティング・ニンフなどがメイン・ディシュのはずである。そしてこの後、カゲロウの季節へと入っていくにつれて、魚は冬の間の餌不足によって衰えた体力を快復し、錆の出た体色を輝く銀色に変えていく。

二人は波紋の上流を見つめる。

白いものが流れてくるのが見える。

ゆっくりゆっくり流れに乗って、よく見るとそれは一つや二つではない。

それも、かなり大きい。


「ヒラタカゲロウかな」


「いや、かなりでかいようだ。10番くらいには見えるぜ」


「そうだな」


「モンカゲロウかな」


「まさか、まだ三月だぜ」


「いや、温水のせいじゃねぇか」


「うーむ、そうかも知れんな。二尺岩魚が育ってるのなら、モンカゲロウがいてもおかしくないか」


「おい、毛針持ってるか。俺はあんなでかいのは持ってねぇぞ」


「ああ、全部持ってきたからあるだろう」


沢田はフライ・ボックスをジャケットのポケットから取り出す。

ボックスには、#12/#10とパンチしたビニールテープを貼ってある。ドライ・フライにしたら最も大きな部類に入る毛針だ。

白いシンセティックマテリアルをウィングにした、羽化直後のモンカゲロウであるダンを模した毛針だ。


「ペイルモーニングダンか。三月に使えるとはな」


「どうする。10番か、12番か」


「よし、俺は10番でやってみる。一本よこせ」


岩井はそう言って沢田から毛針を受け取ると早速ティペットに結び始めた。沢田は少し小さめの12番の同じ毛針を結んだ。二人は屈んだままの姿勢で川に滑り込んでいった。

川原には白っぽい菊花石が沢山転がっていた。

確かにここは、かつて海底だったのだ。

沢田は川に入る前に水に触れてみた。水はかなり暖かかった。多分十度近くあるのではないだろうかと思えた。真水の味だった。 岩井が先に立ち、右手で右の方を指さし、次に自分を指さして左を差し示した。沢田に右のバンクを攻めろという意味だ。 沢田は川を横切るのをやめ、ゆっくりと右手に方向を変えた。 この季節、いつもならウェーダーを通して身を切るような水の冷たさが伝わってくるのだが、この川の水はまるで五月の渓流を思わせた。


岩井は、はやる気持ちを押さえるようにゆっくりゆっくりとウェーディングしながら、去年のことを思い出していた。あれからすでに半年経っている。

あのとき、五十センチあったとしたら、どれくらい成長しているのだろう。普通なら尺を超えた岩魚なら一年に十センチも成長するかどうかだ。

だが、この水温だ。しかも、餌も豊富なようだ。期待できる。

もしかしたら、七十センチや八十センチにもなっているのではないか。大岩の左後方に目をやる。相変わらず波紋を作りフィーディングを繰り返している。

岩井は、二十ヤードほど手前で立ち止まり、第一回目のキャストの態勢に入る。 右を見ると、沢田もちょうど振り向いたところだった。岩井は沢田に向かって親指を上げ、ニヤリと笑うとキャストし始めた。


沢田は、岩井に対して親指を上げて返し、毛針の結び目を確認するとキャストに入った。一投目は右側バンク寄りの手前に落とした。

先ず、足元から攻めようという訳だ。毛針はフワリと水面に落ち、直ぐに流れに乗って手前に流れてくる。

反応はない。

ピックアップして少し左に角度をつけてキャストする。

毛針は風呂に漬かっているような風情で流れてくる。

反応はない。

また少し左に、ほぼ正面に向かってキャストする。次に大岩の右後ろの辺り、波紋の浮かぶ辺りにキャストする。

沢田の毛針が流れて行く直ぐ左に白いものが流れているのが見える。 波紋が浮かぶ。見ているな。と沢田は思う。

奴はちゃんと本物の餌と偽物の餌である沢田の毛針とを見分けていた。

岩井の方を見ると、やはり苦戦しているのが分かる。しばらく眺めていると、沢田の視線を感じたのか、振り向いて首を振ってみせた。

そして、沢田の方に向かって川を横切って近づいてきた。




2-2

「どうだ、そっちは」

「駄目だ。スレてるわけでもねえだろうにな」


「毛針のサイズを落としてみるか」


「おい、あいつら何を喰ってるか知ってるのか」


「いや」


「アブクだよ」


「アブク」


「そうだ。俺はちゃんと見たんだ。あいつら、アブクを喰ってやがるんだ。カマキリの卵みたいな奴だ。どうも一匹に何個って決まってるような流れて来方をするんだ。見てると、全く同じ奴が全く同じ場所で喰ってやがる。それが順番に流れてくるんだ。奴ら、それを待ってて、それだけにしか興味を示さねぇ」


「そう言えば、そんな感じかな。完璧に無視されてるもんな」


「おい、沢田」


岩井が前方を指し示す。見ると、直ぐ前を「カマキリの卵」が流れてくるのが見えた。

そして、その後を追うようにして、八十センチはあろうかという魚がついてきていた。二人は同時に「でかい」と口に出して叫んでいた。

喰い損なったドジな奴だ。餌を捕るトレーニングなど全くしたことのない魚のようだった。魚は二人の立っている直ぐ手前まで泳いできて、二人に気づくと慌てて反転して上流に泳ぎ去った。 岩井が、足元まで流れてきた餌を拾い上げた。


「見たか」


「見た。あれは岩魚って言うよりも、イトウだな」


「参ったな。こりゃ、ティペットを換えておかなきゃな」


「岩魚の日本新記録間違いなしだな」


「それにしても、何だこの餌は」


岩井が、拾い上げたそれを指でつまんで押さえると、ギュッという音を立てて水がしみ出してきた。岩井は自分の鼻にそれを近づけ匂いをかぐと、ちぎって口に入れてみる。


「旨い。カステラのような、マシュマロのような、メレンゲのような、メルルーサのような、ココアのような味だな」


「何だそりゃ」


「お前も喰ってみるか。なかなかいけるぞ」


「大丈夫かよ」


沢田も小さなかけらを口に入れてみる。確かに岩井の言うような、ミルキーな味がした。


「こんなもん喰ってるようじゃ、毛針に振り向きもしないわけだ」


「これで釣ってみるか」


「よせよ、フライ・フィッシャーの名が泣くぜ」


「毛針にこの匂いをつけるってのはどうだ」


「それじゃまるで、バスのワーム・フィッシャーじゃないか」


「でも、釣りたいだろ」


「そりゃ、釣りたい。でも、俺は自分の毛針でやるよ」


「決めてはこの匂いだと思うぜ」


岩井は、恥ずかしげもなく毛針にその餌を擦りつけて匂いをつけている。沢田は毛針のウィングを垂直に立て、ポリヤーンの繊維を引っ張り、卵型にハサミでカットして、その餌のフォルムを形作った。

シンセティックマテリアルをウィングに使っているから、ナチュラルな毛針とはいえなかったが、毛針に生餌をつけて釣るようなことは沢田のプライドが許さなかった。沢田はリーダーを1Xに換え、ティペットはつながなかった。

作業を終えて見上げると、岩井はすでに前方を歩いていた。

大岩の方を見ると、もう波紋は起こっていなかった。フィーディングタイムは一瞬のうちに終わったようだった。


沢田は岩井の後を追って大岩を後にし、上流に向かって川岸を歩き始めた。

少し歩いた頃にはすでに岩井が流れを横切り、釣り始めているのが見えた。

左岸の直ぐ横に沈み岩があるらしく、そこだけ急な流れができていた。岩井はその少し上流から毛針を流している。沢田が入るべき右岸はチャラ瀬になっていて、魚はいそうにない。

普通の岩魚ならこんなところにもいるのだが、あのサイズの岩魚には身の隠しようもないことは見てとれた。

沢田が岩井を置いてもう少し上流へ行こうと歩き始めたとき、岩井の声が上がった。


「沢田ーっ、やったぞーっ」


見ると、岩井のロッドは満月になっている。

沢田があわてて川に入りチャラ瀬を横切る間に岩井は体を左岸に向けたまま下流の方に歩いた。魚が下流へと岩井を引っ張って泳いでいるように見える。

チチッ、チチッとリールが鳴っている。

春先だからなのか、温水育ちだからなのか、魚の活性は低いようだ。ただ深みへ深みへと引っ張っていくだけだ。

岩井は魚にラインをやって疲れさせる作戦のようだ。直ぐに魚の動きが止まり、岩井と魚とが対峙する形になった。

魚の姿は全く見えない。岩井はロッドをあおってはリールを巻き、リールを巻いてはあおる。魚は徐々に寄ってくる。ズタ袋を掛けたときのようなファイト振りだ。

魚が水面下に浮いてくる。テイルだけがゆらゆらと動いているのが見える。魚の姿を見て、岩井は一際大きくあおった。

と、同時にのけぞった。魚は水中で白い腹を見せるようにして回転し、少しだけ流れに流されたが思い直したように下流に向かって泳いでいった。

岩井のロッドからは、重さを失ったリーダーが垂れ下がり、風に舞っていた。




2-3

「リーダー換えてなかったんだろ」

「参ったなぁ。一気に寄せようと思ったんだがな。重てぇったらねぇぜ。ロッドにぶら下がってるみてぇな奴だぜ」


「七、八十センチはあったな。でも、あれ、岩魚かなぁ。ちょっと白っぽくないか。ボーンフィッシュみたいに見えたけどな」


「アルビノかも知れんな。俺にもそう見えた。斑紋もかすかだったしな」


「ボーンフィッシュも汽水域にいるわけだから、もし海水が混じっているなら棲息できるわけだが」


沢田はもう一度水を舐めてみる。


「真水だな。蒸留水のような味だ。味もそっけもない」


「淡水化装置も進んだもんだな。砂漠で使ってるような奴なんだろうな」


二人はまた上流に向かって歩き始める。今度は、リーダーを交換する岩井を置いて、沢田の方が先に立って歩き始めた。

歩きながら、実に渓相のいい川だ、と沢田は思った。

渓相が良すぎる。人工の匂いを感じるほどの気持ちのいい渓相だ。計算し尽くされている。

ふと、自然工法でこの川は造られているのではないだろうか、と沢田は思った。

川の中に配置された大岩の位置、淵とチャラ瀬のレイアウト、川岸のゴロタ石、対岸の灌木。どれをとってもパノラマ写真のような美しさだ。

この川が一般公開されるようになれば、きっと大物釣りのメッカになるに違いない。考えながら歩く沢田に岩井が追いついてきた。 リーダーも交換し、さっきのような失敗は二度と繰り返さないという意気込みが感じられる。

行くぞ、と声を掛け沢田を追い越して川に入っていった。

すれ違いざまに、ミルキーな匂いがした。また、あの餌を毛針にこすりつけたのだろう。


しかし、意気込む二人の気持ちとは裏腹に、魚は一向に出てこなかった。波紋はどこにも見当たらなかった。

夜はすでに完全に明けきり、回りの景色を浮かび上がらせていた。 川岸は緑の草が生い茂り、野花さえ咲いている。タンポポは黄色い花をつけ、山裾にかけてはまるで春のように桜が咲いている。こんな山の中で桜が咲くには二ヵ月は早いのではないだろうか。やはりこれも温水の影響なのだろう。

川の中をウェーディングしながら釣り上っていくうちに、二人は朝方車を停めたダムが見える辺りにまで達していた。もう攻めるべきポイントは残っていなかった。

右手の小さな流れが沢田に残された只一つのポイントだった。小さい割りには、深そうな流れであることが波の形で判断できた。 沢田は慎重に流れに近づいていった。ラインをあらかじめ十ヤードほど出し、左手にループにして持ち、魚に気づかれないようにメインストリームに向かってフォルスキャストし、ゆっくりと流れの手前から探り始めた。


一投目のキャストは流れ出しの辺り。

直ぐに毛針は沢田の足元まで流されてきた。

二投目のキャストはその少し上流の小岩の後ろ。

いるとすればこの辺りだ。沢田はその小岩の少し上流に毛針を乗せた。流れに乗って毛針が揺れる。小岩を回り込む、小岩の後ろのサラシに入る。三角形の口が水中から現れる。

いた。くわえた。反転した。沢田のロッドが差し上げられる。

フッキングのためにロッドをあおる。潜った。ラインが張る。ロッドがたわむ。 魚が走る。上流へ走る。ラインが滑る。ラインがリールから出ていく。

魚が反転した。ラインがゆるむ。ラインを手繰る。ラインをリールに巻き取る。魚は下流へ走る。

ラインが出ていく。魚が本流に向かう。魚が潜る。ラインをやる。 水しぶきを上げてリールが回転する。ロッドを両手で支える。ロッドがたわむ。テンションを保つ。

魚が止まる。引っ張る力が弱まる。ロッドをあおる。リールを巻く。ロッドをあおる。またリールを巻く。

魚が流心に出ていく。ラインを出す。

魚が流心から押し流される。ロッドをあおる。リールを巻く。

魚が寄ってくる。魚のテイルが見える。魚体が見える。顔が見える。眼が見える。人の顔のような岩魚の顔が見える。

五ヤードほどラインを残すまで巻いた後、沢田は岸に向かって流れを横切り、砂州の方へと魚を導いた。魚は浅瀬にその魚体を横たえた。魚は口を開け、独り言を言っているように二、三度パクパクさせた。


「やったなぁ、沢田。なっ、いただろ、でっかい奴が。八十センチは軽くあるぜ」


緊張とファイトで疲れている沢田に岩井が大声で叫ぶ。


「ほら、写真撮ってやるよ。ほれ、そこに立てよ」


沢田は岩井に言われるがまま、魚を持ち上げ、ニコパチ写真に収まった。撮影が終わると沢田は魚を川に戻した。戻すとき、魚からマシュマロのような匂いがした。




第三章



3-1

夜は完全に明けていた。

沢田が時計を見るとすでに八時を回っていた。二人は車を停めた所まで上がる道を探したが全く見当たらなかった。

谷は深く、漁協の前についていた石段のようなものは発見できなかった。前方にはダムのコンクリートの壁がかすかな円を描いて立ちはだかっている。壁の左脇には送水管が走り緑に覆われた崖の中に消えている。壁の直ぐ下には、左岸からパイプが延びてきて、川面に突き出している。

よく見るとそれは半円形のパイプを組み合わせてあって、下の部分が回転するようになっている。

きっと一定時間になるとここからあのマシュマロみたいな餌が落ちてくるのだろう。この川は自然の養殖池なのだ。見上げれば青空が広がり、他には何も見えない。

対岸には造花のような桜が咲き、野花が花をつけ、まるでディズニー映画の書き割りのような春の景色を演出している。

が、あの春独特の、恋する気持ちにも似た胸が痛くなるようなときめきも匂いも感じない。本当の自然を知らずに、写真を見て自然を造るとこんな風になるのではないだろうか。と、沢田は元来た道を引き返しながら思った。

「岩井、お前、ここの施設の写真を撮りに来たって言ったな」


「ああ、そうだ。発電所だ」


「このダムからすると、水力発電所ってことだよな」


「ああ、そうだ。地域密着型の新型水力発電所だ」


「どこにそれはあるんだ」


「この直ぐ上だ。送水管が見えるだろ」


「ダムってのは、水の落差を利用してタービンを回すためにあるんだろ。じゃ、何で殆どダムと同じ高さのところにあるんだ」


「そこが、新型のゆえんなんじゃないか。どんなところにでも設置可能で、送電線も不要だとか言ってたけどな。だから、過疎の地域の発電にも低コストで運転可能なんだそうだぜ」


「フーン。そうか」


釣り上って行くときには全く感じない距離も、帰りとなると遠く感じるものだ。沢田には久し振りの徹夜になる。

釣りといっても、徹夜はこたえる歳になっていた。

膝がかすかだが笑っている。水の中では気にならないウェーダーとウェーディングシューズが重たい。

水に濡れたウェーディングシューズの中で、シワになったウェーダーとソックスとが遊んでいる。歩く度にギュッ、ギュッと音を立てて、中に入った水が飛び出して来る。

岩井は煙草をふかしながら、軽快に歩いている。

やっぱりカメラマンは体力の人だ。下りは楽なはずなのだが、どうしても後ろから手で押されるような歩き方になってしまう。 岩井は、もうだいぶ先を歩いている。


沢田が追いつこうと脚を早めたとき、自分の右足で左足を蹴飛ばして転んでしまった。転んだ弾みに膝をしこたま打ってしゃがみ込んだ。

ロッドは折らないように、転ぶ瞬間に左手の草むらに放り投げた。熟練の技だ。

沢田は、岩井に少し待ってくれるよう声をかけ、立ち上がってロッドを拾い、ふと、転んだ跡に目をやったとき、ウェーディングシューズが削った土の下に白いものを見つけた。

歩み寄って確かめると、それはコンクリートだった。 沢田は、岩井を呼び、岩井が来るまでにウェーディングシューズで回りを蹴飛ばしてコンクリートが続いていることを確かめた。


「おい、岩井。どう思う。この下はコンクリートだぞ」


「護岸工事をしてあるわけか」


「川の中もそうなのかな」


「まさか。それじゃ下水溝じゃねえか」


沢田は川原に下りていって川床の石を足で蹴ってどけてみた。

コンクリートは見えなかった。代わりに、砂地が現れた。

沢田はホッとした。コンクリートで固められた川で釣るほど味気ないものはないからだ。

見上げると岩井は笑いながらもう歩き始めていた。沢田が慌てて土手に向かったとき、川岸の近くの砂地の下にコンクリートが見えた。やっぱりそうなのだ。

この川は全体をコンクリートで固めておいてから、上から砂や石やを並べて、自然に見えるように工事してあるのだ。人工の自然なのだ。

向かいの桜の木も、以前からここにあったものではないのだろう。 この野花にしても、後から植えたものだろう。

コンクリートの上に土を置いてプラスチックのネットを被せ、その間に苗を置いて土を被せてあるのだろう。

もしかしたら、その土の中には温水パイプとか肥料パイプとかが走っているのかもしれない。一瞬、この春めいた青々とした景色が沢田にはハイテク工場に見えてきた。




3-2

「岩井、この村は塩味村だったって言ったな」

沢田は岩井に追いついて言った。


「ああ、そうだ。去年俺が撮影に来たときにはそうだった」


「で、今は愛想村だ」


「そうらしいな。それがどうした」


「何で愛想村なんだろうな」


「だから、皆で愛想よく観光客を迎えよう!とか何とかいうキャッチフレーズをどっかの代理店がプレゼンしたんじゃねぇか。で、シンボルマークとか作ってよ」


と岩井が言ったとき、視界が開けて朝乗り越えてきたフェンスが見えた。フェンスは艶消しのダークグリーンにペイントしてあった。自然に溶け込むようにという配慮だろう。そして、フェンスの向こうには白い服を着た数人の人影が確認できた。多分漁協の連中だろう。朝、川岸を軽四で偵察してまわってダム下に車を見つけ、入川料を徴収するために待っていたのだろう。白い洋服が朝日にキラキラと光っている。ビニールコーティングでもしてあるのだろうか。ブルゾンとパンツと長靴。帽子も被っている。全部白だ。


「すいませーん、どうも。朝早くて閉まってたもんですから」


岩井が連中に声をかける。数えると五人いた。全員同じユニフォームを着ている。そして不思議なことには全員がニコニコ笑っているが見える。二人は連中の前まで辿り着いた。


「すいません、どうも。後で行くつもりだったんです」


「分かってますよ。それより、釣れましたか」


組合長らしき男が声をかける。ニコニコ笑っている。帽子には、英文でISOと書いてあり、楕円が四つ組み合わせてある。見た感じはエレクトロニクスメーカーのマークのようだ。これも、岩井の言うようにどこかの代理店が作ったのだろう。


「いやぁ、僕はティペットを切られてしまいましてねぇ。でも、彼が一匹上げました。計ってみたら、八十三センチありました」


「ホーッ、そんなになってましたか。わしら釣りはしませんのでねぇ。釣り人の人から聞く情報が頼りなんですワ」


「で、どうですか、釣り味の方は」


別の男が沢田にたずねる。やはりニコニコ笑っている。


「ええ、もうドン詰まりのダム下の流れ出しのところで掛けたんですけど、活性は低いって気はしますね」


「ハハァ、やっぱ、自分で餌捕ってないからなぁ」


「ええ、ダム下で見ましたよ。自動給餌器ですか、あれ」


「ええ、あれでまかなってます」


「ああ、この餌、何ですか。やたらいい匂いがしますけど」


岩井がベストのポケットからあの餌の残りを取り出す。まだ持っていたのだ。組合長らしき男が答える。


「それねぇ、茸なんですよ」


「茸」


「ええ、ちょっと改良はしてあるんですがね。この村の特産品にしようと意気込んでるんですワ。一村一品運動ちゅう訳ですワ。アイソタケとでも言う名前にしようと思ってるんですがね」


「茸ねえ。石付きもないですね」


「その茸はおが屑で育つんです」


今度は四人の後ろに立っていた男が口を出す。この男は笑っていない。きっと、漁協の経理か何かの担当者なのだろう。愛想が少し足りない。ロールプレーイングで笑顔作りのトレーニングが必要だろう。見ようによっては、学者に見えないこともない。男が続けて説明する。この茸の説明は、きっとこの男の担当になっているのだろう。他の四人はこの男の方を黙ってじっと見ている。




3-3

「この茸には成長ホルモンを与えているんですよ。だから早く育つ。しかも、柔らかい因子を持つ茸と香りのいい因子を持つ茸のいいところだけを取り出して、子供にも食べやすい茸にしようという設計意図に基づいて・・・」

「さぁさぁ、そんな難しい話は後でゆっくり。そんなところに立ってないで、どうぞ。上で話しましょう」


組合長らしき男がこの男の話をさえぎってフェンスの鍵を開け、扉を開けてくれる。漁協の職員五人と一緒に沢田と岩井は崖の石段を這い上がっていった。


漁協の建物は、看板に似合わず、中は豪華そのものだった。

外はコンクリートの打ちっぱなしなのだが、入口のドアを開け ると、直ぐに応接間になっている。応接間といってもホテルの ラウンジ並みの調度備品だ。

奥にはビデオモニターの設備一式が整然と並び、パソコンのユ ニットも揃っている。テーブルは一枚板のロングテーブルで椅 子がセットしてある。天井にはシャンデリアが吊り下がり、床 にはカーペットまで敷いてある。

汚れたウェーダー姿の沢田と岩井は一瞬立ち止まってしまった が、組合長らしき男に促されてテーブルにつく。テーブルにつ くと、直ぐにコーヒーが運ばれてくる。

目鼻だちのハッキリした、ショートカットの女だ。

ウェイトレスのような白いレースの縁飾りのついたエプロンを つけている。女性職員だろうか。


「あっ、コーヒーでよかったですか。他にも色々あるんですが。なんせ、ここには喫茶店がないもんで。村の憩いの場も兼ねてるんです。カラオケの設備もあるんですワ」


「なるほど」


そういえば、そんな話を聞いたことがある。と、沢田は思った。若者の農村離れを防ごうと、村役場をディスコにした村もあるとかいう話もあるほど、過疎の村の若者対策は深刻らしい。


「ところで、去年の組合長さんはどうなさってるんですか」


岩井が、コーヒーをすすりながら組合長らしき男にたずねる。そう言えば、この男は岩井のことを知っていそうな素振りではなかったし、他の四人も面識がなさそうだった。


「ああ、ご存じですか。あの人は引退ですワ。今は私が組合長の愛想です」


男は名刺を差し出す。名刺の左上には、帽子と同じマークが刷り込んである。愛想村というのはこの男の名前から採っているのだろうか。塩味村という歴史のある名前がこんな男の名前に変えられてしまっていいのだろうか。村ごと買い取る代償としては何てことはないのだろうか。沢田は納得がいかなかった。


「引退って、そんなにお歳でもなかったと思いますが」


「いやいや、歳の問題じゃなくって、人事ですワ。今は向こう岸の村役場の方に詰めております。以前のここの職員は皆栄転であっちですワ。わしらは皆、公募でこの村に来たんですワ」


「へぇっ、公募ですか」


「ええ、皆以前は電力会社で働いてましてね。高齢者対策の一環ちゅうわけですワ」


「なるほど。それで、魚のことは余り詳しくないわけですか」


「そういうことですワ。何せ、このプロジェクトは本社と便利通信社さんとが進めたものでしてね。辞令で今年からこっちでやれっちゅう訳でして、四月一日オープンを目指しとる訳です」


「便通ですか」


「おや、ご存じでしたか」


「ええ、僕らも広告屋なものですから。彼はカメラマンで、発電所の写真を去年撮りにここまで来たらしいんです」


「ああ、それで。まだね、会員募集広告もしていないし、よくお分かりになったなとは思ってたんですけど。でも、ちょうど良かったですよ。ここは、今流行りの毛針釣り専用コースにしようっちゅうことですから。いろいろお話が聞ければ参考になりますワ。ああ、そうそう、これ、応募用紙なんですけどご記入いただけませんか」


組合長がテーブルの上に積んであった応募用紙を二枚差し出す。見ると、生年月日から始まって、氏名、年齢、住所、電話番号、ファックス番号、会社名、会社住所、電話番号、ファックス番号、趣味、家族構成、年収、ローン残高、住居形態、釣り歴、車種、職種、友人名、血液型、好きな食べ物、嗜好品、好みの女性とやたら詳細な項目が並んでいる。プライバシーに関わる項目も多々ある。顔写真を貼るスペースまである。


「こんなの書けませんよ。プライバシーの侵害じゃないですか」


「やっぱりね。そう言われるんじゃないかと、我々の間でもね、議論してたところなんですワ」


「これも、便通ですか」


「ええ、一式便通さんですワ。しかも、パソコンのソフトを組んでしまってるんですワ。これに一億くらいかかったとか聞いてます」


「これじゃ、誰も申し込みませんよ。ローンの申込書よりひどい内容じゃないですか」


「そうですか。困りましたな。そう言われるんじゃないかとは思ってたんですけどねぇ」


組合長は席を立ち、他の四人と女性職員を呼んで二、三分打合せをすると戻って来て沢田と岩井に向かって言った。


「こうしてお会いしたのも何かのご縁、特別にお二人は無料登録にさせて貰いますワ」




第四章



4-1

二人は二階で写真を撮って貰うと、女性職員に車で「民宿愛想村」まで送って貰うことになった。

岩井が食事をするところが近くにないかどうか組合長に聞くと、ぜひそこへ行くようにと勧めてくれたのだ。二人には願ってもないことだった。

食べ物も飲み物も持ってきていなかったし、夕マヅメをもう一度狙うためには、仮眠も必要だった。

朝十時にもなってくると太陽の光が眩しく、釣っていたときには感じなかった疲労も極度に高まっていた。

組合長は、受話器を取り上げると、ダイヤルも回さずに二人が行く旨を相手に伝えた。おそらく直通電話になっているのだろう。 二人の車は、でき上がったカードと一緒に後で宿まで回しておいてくれるというので、岩井は鍵を組合長に渡した。

カードは一年間の入川料が無料になるだけでなく、施設使用料とおまけに今から行く宿が一泊無料で宿泊できる「特別優先会員カード」だということだった。

外に出ると漁協の車はやはり白で、ドアには同じマークがついていた。さすが便通、コーポレートアイデンティティはお手の物だ。

女性職員に導かれて二人は車に乗り込んだ。沢田は後ろの座席に、岩井は助手席に座った。ウィーンという音を立てて車が動き始める。

スムーズな電車のような加速だ。電気自動車なのだろう。


「君も元電力会社の職員だったの」


眠気にもめげず、早速岩井は運転する女性職員に話しかける。なるほど、そういうことだったのか。と、沢田は苦笑する。女の体から、なぜかかすかにあの茸の匂いがする。


「いいえ、わたしはこの村の出身です。今から行く民宿は母がやってるんです」


「へぇっ、親子なの。兄弟は」


「わたしの上に、姉が二人います」


「へぇっ、君が末っ子なの。で、そのお姉さんは何してんの」


「一番上は研究所で、二番目は農協で働いています」


「で、お父さんは」


「父は、去年まで漁協の組合長をしてたんですけど、今は村役場で働いてます」


「へぇっ、じゃあ、去年会った人は君のお父さんだったのか」


「父をご存じですか」


と、女の顔が一瞬緊張したように岩井には見えた。

横顔もハッキリしている。多少鼻が高すぎる。悪くすれば、鼻つまみのピノキオになるところを大きな目と少し厚めの唇が主張することで救っている。額の骨格もしっかりしている。眉は三日月形で綺麗に生え揃っている。ショートカットの髪は豊かで、若い血潮の産物であることを証明している。胸も形のいい乳房が備わっているのではないかと思わせるように、ユニフォームの下に盛り上がっている。

ハンドルを握る手は顔つきに比べると少しごつごつした印象を与えるが、スカートから出ている脚はセクシーだ。足首は締まっていて、ふくらはぎの肉の付き方も申し分ない。

鄙には稀なという形容を与えてもいいだろう。

下唇が少し厚いのは上付きの証拠だ。尻の張り具合も岩井好みだった。 ただ、異様に肌の色が白いのが沢田は気になった。


「で、君、何ていうの」


「ビオです。美しいっていう字に鼻緒の緒っていう字です」


「ミオでなくってビオちゃんか。いい名前だね。誰がつけてくれたの」


「母です。上の二人の姉もビオって名前なんです。一番上が美しいに食欲旺盛の旺。二番目が美しいに中央の央って書きます。」


「紛らわしい名前だな」


「そうですか。着きました」


宿には直ぐに着いた。もう少し話したそうな岩井を残して、女はさっさと車から降り、ドアを開けると、どうぞと言って宿の玄関の方に二人を導いた。


玄関には、漁協と同じような看板が掛かっていて、「民宿愛想村」と書いてあった。二人が歩いていくと、玄関には美緒の母が迎えに出ていた。沢田と岩井は顔を見合わせた。そして、美緒とその母の顔とを見比べた。美緒は笑っている。


「そっくりでしょ。皆分からないのよ」


「双子か、君たちは」


「いいえ、親子よ。間違いなく。上の二人の姉もそっくりよ」


「ようこそ、ビオの母です」


その母が口を開いた。




4-2

「しかし、そっくりだなあ」

「そうですか。皆さんそうおっしゃいますわ。そんなことより、どうぞ。お入りくださいな。シャワーでもお風呂でもいつでも入れますよ。軽いお食事も用意してあります」


「じゃ、お母さん、私はこれで。どうぞごゆっくり」


末っ子の美緒は車を運転して漁協に戻っていった。


二人は美緒の母に導かれて、漁協と同じコンクリート打ちっぱなしの建物の中に入っていった。

建物の中は漁協よりも豪華だった。

何が「民宿愛想村」だ、と二人は思った。金はあるところにはあるものだと言うが、この「民宿」の金のかけ方は異常に思えた。 一階はロビーになっていて、両側は二階に上がっていくための階段になっている。階段には手すりがついていて、吹き抜けになった二階から半円を描きながら下りてきている。二階は宿泊用の部屋になっているようだ。調度品や備品は全部白で統一してある。カーペットまで毛足の長い白だ。

二人は顔を見合わせると、ウェーダーを脱ぎ始めた。


「構いませんのよ、そのままで。どうせ、釣り人の方が沢山いらっしゃるようになれば汚れてしまいますもの」


「でも、これじゃあんまりですから」


「どうぞ、お気遣いなく。当民宿第一号のお客様ですもの。お食事とお風呂とどっちを先にされます」


「シャワーを浴びたいんですけど、着替えが車の中にあるんです」


「それなら、ご心配なく。ちゃんとお部屋に用意してありますから。じゃ、どうぞ」


二人は促されるまま、ウェーダーも脱がずに白いカーペットの上に足跡を付けながら二階の部屋へと導かれていった。

部屋はベッドになっていた。

一部屋の広さはホテルのスウィートルームの広さはあって続き部屋になっている。沢田は240号、岩井は241号だった。

美緒の母は、じゃ、下でお待ちしていますからと言い残すと、階段を下りていった。


「新婚旅行に来たみたいだな」


「まったく。参ったなぁ。何なんだこいつは。これも、便通の仕業か」


「多分な」


部屋の中も全て白で統一してある。

白い壁に天井。白い姿見。白いシルクのベッドカバーの掛かったダブルベッドに白いスタンドに白いテーブルに白い椅子に白い電話に白いテレビ。おまけに金の縁取りがしてある。

洗面ルームもバスルームも白だ。テーマカラーは白である。

岩井は、参ったなぁを連発しながら、ドアを開けて隣の部屋に消えていった。沢田は入口のドアの近くでウェーダーとウェーディングシューズを脱ぎ、壁に汚れがつかないように置くとバスルームに入っていった。


バスルームにはシャンプーもボディシャンプーも揃っていた。お湯は直ぐに出てきて、途中で温度が変わるようなこともなかった。 快適なシャワーを浴び、白いバスローブを着て白い室内履きを履いてベッドに倒れ込んだところに見ていたように白い電話が鳴った。

食事の用意ができているということだった。

眠さが先に立つが腹も減っている。岩井を呼ぼうと起き上がると、すでに岩井は間仕切りのドアを開けてこっちの部屋に入ってくるところだった。岩井も腹が減っているので食事をしてから仮眠しようということになった。

二人が着替えようとしたところに、また電話が鳴った。

今日は他に客がいないのでそのままでいいということだった。

下着も着ていないのだが、快適な室温調整がしてあって暑くも寒くもなかった。温水で暖房しているのかもしれないと沢田は思った。


二人が階下に下りていくと、電話のとおり食事の用意ができていた。そしてそれは、二人が想像していたよりも豪華な食事だった。 皿はイギリス製の陶器。ナイフ、フォーク、スプーンは銀製だった。白いテーブルクロスの上には燭台に白い蝋燭まで立ててある。

白身魚のムニエルのソースは良くできていたし、サラダの野菜も新鮮でドレッシングの味も洗練されていたし、自家製パンの味も良かったし、コンソメの奥深くてそれでいてスッキリと澄んだ味には感心してしまった。

この村でとれた葡萄で作ったという白ワインもキリリとしまっていて料理を引き立てていた。その白ワインにはすでに白いラベルが貼りつけてあって、「コート・ド・アイソ」とアルファベットで書いてあった。


しかし、何よりもこの食事を引き立てていたのは、マダム-と言いたくなるような出で立ちだったので-だった。

白のスタンドカラーのシャツに白のビロードのタイをつけ、白のロングスカートに白のストッキングに白のローヒールで二人にサーブし、話相手をしてくれた。

二人は、ここに案内されたことに対して、当惑と幸運とを同時に覚えた。二人が、夕マヅメにもう一度川に入りたい旨をマダムに伝えると、彼女は直ぐに漁協に連絡を入れてくれた。

二人は、夕マヅメの釣りをしてそのまま帰るつもりだったのだが、マダムの、夕食は夜八時からなので遅れないようにという一言で一泊することに決めた。


食事を終え、腹が一杯になると二人に睡魔が襲ってきた。二人は早々に二階に上がると、それぞれの部屋に分かれてベッドにもぐり込むと心地よい眠りに落ちた。




4-3

沢田が寝息を立て始めた頃、ドアが開いてマダムが入ってきた。マダムは部屋に入ってくると直ぐに洋服を脱ぎ始めた。自分の洋服を脱ぎ終えると、沢田のベッドに体をすべり込ませ、沢田のバスローブの前をはだけると縮こまった沢田の性器を口に含んだ。

マダムが厚めの唇と舌とで刺激を与えると、沢田の性器は徐々に勃起した。マダムは沢田の完全に勃起した性器を口に含み、犬が肉を食い千切るときのように頭を左右に振った。

沢田は射精した。マダムは射精された精液を呑み込むと、尿道に残った精液を絞るように両手で乳絞りのようにしごいて沢田の性器をしゃぶった。

沢田がたまらずにマダムの方に向き直ると、マダムのニッコリと笑う顔が目の前にあった。マダムの高すぎる鼻が沢田の鼻にぶつかった。

沢田はマダムの唇を自分の唇で覆うと、体を預けていった。

指で探るとマダムの性器は熱く充血していた。

唇を当てるとマダムは両足を開きながら自分の方に引き寄せた。 マダムの性器からは甘い香りがした。マダムから吹き出す汗も同じように甘い香りがした。マダムの鼓動と呼応した膣筋肉の動きに導かれて、沢田はマダムの体の中に二度目の射精をした。 マダムはそのとき沢田の尻を自分の性器の方に強く引き寄せ、両脚を思い切り開いた。マダムが沢田の尻にあった両手を腰から背中の方に上げていき、もう一度沢田を強く抱きしめたとき、電話が鳴った。

マダムは一瞬体を強張らせると、沢田の胸を軽く押した。

沢田が体を反転させると、マダムは起き上がり洋服を着け始めた。電話は鳴り続けている。マダムは背中を向けて洋服を着け終わると沢田の方に向き直り、ニッコリ笑うと出ていった。

電話は鳴り続けている。沢田が出ると、マダムからだった。何度も電話したのだが起きないので、釣りにはもう行けないのではと言う。時計を見ると午後七時を回っていた。沢田が跳ね起きると、バスローブの前がはだけていた。沢田は自分の性器から立ち昇る甘い匂いを感じた。沢田は、あわててバスローブの前を合わせると、シャワールームに入っていった。

洗面台の横の棚の上には、下着が洗濯してキチンとたたんで置いてあった。


汗ばんだ肌にシャワーが気持ちいい。

湯気の中にかすかに甘い匂い、あのマシュマロの餌の匂いだ、が立ち昇ってくる。シャワーを浴びて髭を剃り、下着を着ると電話が鳴った。出るとマダムで、クロゼットの中に入っている洋服を着て下りてくるようにということだった。

シャワールームを出て部屋に入り、クロゼットを開けると白いスーツと白い靴が置いてあった。白いスタンドカラーのシャツに白いビロードのタイ。

なるほど、これはここの貸し衣装なのだろう。

きっと、リッチな雰囲気でディナーを食べるための演出として、便通がプレゼンテーションしたものなのだろう。余程の予算があったに違いない。


沢田がその衣装を身に着け、姿見で整えていると岩井がニヤニヤ笑いを浮かべて入ってきた。

岩井も沢田と同じ服装をしていた。岩井が沢田に話しかけようとしたとき、また電話が鳴った。マダムからだった。

用意ができたので下に下りてきてくれということだった。

どうも、一部始終を見られているような気がする。岩井にそう言うと、岩井は天井の隅を指さした。そこには赤い点滅する小さなライトが見えた。そして、その下には丸い小さな穴。おそらくテレビカメラのレンズだろう。


「なるほど、お見通しってわけか」


「そうらしい。でもな、俺、いい夢見てな。俺、ビオちゃんとやっちまった」


「俺もだ」


「何、お前もか」


「いや、俺の方は下のマダムだった」


「それがよ、すんげぇリアルでよ、本当にいっちまってるんだ。それも二回もだ」


「俺もだ」


「何、お前もか」


「岩井、あれ、夢だと思うか。もしかしたら、本当かもしれんぞ。あの茸の匂いが残ってたような気がするんだ」


「ああ、あれなぁ、俺もそんな気がした。でも、指に匂いが残ってるからな」


沢田は自分の指の匂いを嗅いでみた。確かに、かすかにあの茸の匂いがした。


「どうやら、疲れてるようだな、二人とも」


「そうらしいや、疲れてるときにゃやりたくなるもんな。飯にするか」


「そうだな、寝てただけなのに腹減ったもんな」


二人が階段を下りていくと、階下には豪勢なディナーの支度ができていた。メイドが三人もついている。組合長も来ている。今夜はここで食事するらしい。二人がテーブルに近づくと直ぐに声をかけてきた。


「いやぁ、よくお似合いだ。やっぱり都会の人は違いますなぁ。しかし、残念でしたねぇ夕マヅメを狙えなくて。よっぽどお疲れだったんでしょうなぁ。いい場所をお教えしようと思って、お待ちしてたんですが」


「すみません。なぜだか起きられなくって」


「明日、朝マヅメを狙いますよ」


「そうそう、それを言いにきたんですワ。実はね、明日は自衛隊の演習日になってましてね」


「自衛隊」


「そうそう、あれ、ご存じなかったですかね。この奥は以前から自衛隊の演習場になってましてね。演習が朝五時からはじまるんですワ。それで、ダムから奥は立入禁止になってましてね。川も万一のことがあってはというんで、禁漁なんですワ。昼からなら大丈夫なんですけどね。残念ですなぁ。本当に、申し訳ありませんなぁ」




第五章



5-1

ディナーのメニューは最高だった。

二番目の農協に勤めているという姉、美央が持って帰った素材でその夜のディナーはすべて作られていた。

三人のメイドに見えたのは、美旺と美央と美緒だった。

二人は、その二人の姉を見てまた驚いた。

三人の姉妹は、母親と全く同じ顔と体格をしていた。

身長百六十センチほど。体重五十キロほど。形のいいバストとしっかりと張った腰。キュッと締まった足首と形のいいふくらはぎ。スケルトンは全く同じといっていいほどだ。

しかも、その母は三人の娘を生んだ体にはどうしても見えなかった。年齢もよく分からない。長女を生んだのはいくつのときなのだろうか。

二十歳だったとしても、もう五十近いはずなのだが、三十くらいにしか見えない。だが、それはありえない。何故なら、長女の美旺も次女の美央も末っ子の美緒も二十四、五に見えるからだ。 そして、ショートカットにあの鼻つまみの高すぎる鼻と大きな目と厚めの唇。そして、顔に似合わない少しごつごつした手。 同じ体型の四人が同じ洋服を着て動き回っている姿は、二人の頭を混乱させる。

ワインのお代わりを頼もうと声をかけると、ワインは妹に言ってと言われ、料理の説明を聞こうとすると、それは母に聞いてと言われ、肉の良さを褒めると、それは、お姉さんに言ってと言われる。


「わっはっははは、よく似てますでしょ。わしらも本当に全く見分けがつきませんワ」


「全く、呆れてしまうほど似てますねぇ。でも、本当に美味しい肉だ」


「そうでしょう、何でもその肉は松阪牛の一番のところらしい。そんな牛をいくらでも飼育してるんですワ、ここの農協でね。しかも野菜も新鮮で珍しいものばかりでしょう」


「本当に。これなんか何なんでしょう。キャベツでもないし、白菜でもないし」


「それそれ、それもこの愛想村の特産でしてね、ハクランって言うんですワ。それにそのポテト、旨いでしょ。ジャガイモなのにチキンのような味がしませんか」


「そういえば、何となくそんな味がしますね。チキンブイヨンで煮込んであるのかな」


「いやいや、もともとそんな味なんですワ。これも特産品でね、今、便通さんに名前を考えて貰ってるところですワ」


「いや、一番の特産品はあの岩魚じゃないですか」


「そうそう、そうですワ。あれには苦労しました。もともと冷水の魚でしょ、岩魚って。温水になじむかどうか心配で心配で」


「組合長さんは、今年からじゃなかったんですか」


「あ、いやいや、会社にいるときから話は聞いてたもんでね。まさかわしがその担当になるとは思いませんでしたワ」


「いやぁ、あのでかさは凄いですよ。見たことがない。この岩井が教えてくれなかったら全く知らないところでした。でも、色がね。ちょっと白っぽいのが気になりますけど」


「まかしておいてください。今、改良中なんですワ。もう少し黒っぽくなるようにね。餌のせいかもしれませんな」


「どれくらいまで大きくなるんでしょうね、一体」


「さあ、わしらも初めてのことでして、日本新記録を狙ってるわけですワ」


「もう少しファイトするともっと面白いんですけどね」


「ああ、それも改良中ですワ。ちょっと男性ホルモンを餌に入れるようにするとかね」


「科学的なんですねぇ、ここの漁協は」


「そりゃそうですワ、日本の英知を集めた日本一の漁協を目指しとりますから」


「なるほど」


「さあ、わしはそろそろ退散しますワ」


「あっ、じゃあ、皆さんで記念写真を撮りましょう」


岩井がカメラを構える。旨い食事とワインでほろ酔い加減の組合長は上気した顔で記念写真に収まった。


「じゃ、わしはこれで。女房がうるさいもんでね。あ、そうそう、忘れるとこでしたワ。車の鍵と、それからカード。写真、男前に撮れてますよ」


「あっ、明日はどうすればいいんでしょう」


「昼すぎにこっちから連絡しますワ。自衛隊の方から連絡が来ることになってますんで」




5-2

組合長が帰っていくと、急に静かになった。親子四人はテーブルについて黙って組合長と沢田の会話を聴いていたが、何も食べず、何も飲んでいなかった。食事を一緒にしようと言うと、片づけた後で四人で食べるという。今夜はこの民宿に全員泊まるらしい。沢田と岩井は、食後のコニャックを飲むと部屋に上がっていった。まだ寝てしまうには少し早すぎた。沢田は、部屋に行こうとする岩井を自分の部屋に呼んだ。部屋に入ると、沢田は天井のテレビカメラに背を向けて座り、小声で岩井に話しかけた。

「岩井、どう思うこの村のこと」


「どうって、何が」


「おかしくないか。あの組合長の言ってることを聞いてると、この村は何だかバイオテクノロジーの実験場みたいだろ。野菜にしても肉にしても、ありゃバイテクの産物だぜ」


「あの岩魚もか」


「そうだ。確か新聞に出てたと思うけど、あの岩魚って多分、例の三倍体って奴だぜ」


「何だそりゃ」


「でっかくなるように遺伝子操作してあるんだ。多分あれは全部雌だろう」


「雌の方がでかいもんな」


「そうだ。しかも、三倍体は生殖能力がないから長生きするわけだ。だから巨大化する。さっき食べた野菜だって、肉だって。あの肉なんかクローン牛だぜ、きっと」


「クローン牛だって旨けりゃいいじゃねぇか」


「そうも言ってられないぞ。あの親子どう思う。そっくりすぎないか」


「おいおい、連中もクローンだっていうのか」


「そうでない証拠がどこにある」


「だって、連中の親父はいるんだぜ」


「じゃ、なぜ、今夜ここに戻ってこないんだ。親子なんだろ」


「別居中か。こんな田舎じゃ珍しいか」


「父親が来ずに組合長が来た。変じゃないか。どうも、俺たちの様子を窺いに来たって感じだぜ」


「様子を窺うって、どういう意味だ」


「つまり、何か勘づいてないかとか。例えば、あの発電所だ。あれだって水力発電所には見えないだろ。向こう岸の建物にしても小さすぎると思わないか」


「だってお前、あれは最新設備の奴だからだろ」


「あのなぁ、今最新設備の発電所って言ったらだな・・・そうだ、岩塩だ。岩塩ってのは元々は海水だ。海水を淡水化して運転する水力発電所なんて聞いたことあるか。淡水化した水を使うのなら、発電所はこの川の下流にあるはずだろう。何もないじゃないか」


「確かに、俺が撮影したのは向こう岸のあの建物だ」


「あれは、ダミーなんじゃないか」


「おいおい、沢田、そりゃ、考えすぎじゃねぇか」


「そうかな、この村の愛想村って名前にしたって、ISOってロゴのイメージはアイソトープだし、あの娘たちの名前だって英文で書いたらBIOだ。バイオって読めるだろ」


「バイオか。そういやぁ読めるな。で、アイソトープって何だ」


「同位元素のことだ。例えば、ウランとかプルトニウムには同じ元素でも違う働きをする奴があるんだ。確か、天然ウランは238と235で出来てて、235だけが核分裂しやすい。で、ウラン238に中性子を一つくっつけた奴がプルトニウム239だ」


「よく分からんな。でも二つくっつけるとお前の部屋番号だな」


「そうだ。で、三つくっつけると岩井、お前の部屋番号だ。プルトニウムの同位元素は四つだ。そして、二階の部屋数も四つだ。変な部屋番号だなと最初から思ってたんだ」


「あの親子も四人だな。しかも、そっくりだ。あの親子も同位元素なのか」


「あれが親子に見えるか」


「確かにな。似すぎだよな。芸能界でもやってけるぜ。アイソトープスとかいう名前で」


「お前、写真撮ったよな」


「ああ、勿論、バッチリだぜ。あっ、カメラ忘れてらぁ。ちょっと取ってくるわ」




5-3

岩井はドアを開けて出ていった。岩井が階段を途中まで下りたとき、話し声が聞こえてきた。岩井は立ち止まった。

どうやら、親子で片づけも終わって水入らずの団欒をしているようだ。正面に母親が見えた。-多分母親だろう。

向かいには三人の娘が背中を見せて座っている。

娘たちは何も着ていない。きっと、風呂上がりでそのまま出てきたのだろう。裸でも別に寒くはないから気持ち良さそうだ。娘たちは髪も体もまだ少し濡れたままだ。まったく、誰が誰だか見分けがつかない。骨格も、肌の張りも何ら変わらない。コピーが並んでいるとしか思えない。

テーブルの上にはそれぞれの食事の皿が並んでいる。

その皿の中身に岩井は見覚えがあった。あの茸だった。三人の娘たちはそれを美味しそうに口に持っていっていた。デザートなのだろうか。 あの味と香りは、もしかしたらやみつきになるものかもしれない。

そのとき、電話が鳴った。母親が出た。母親の顔が曇った。

三人が立ち上がって、母親を取り囲んだ。良くない電話なのだろうか。母親が電話を切った。

娘の一人が母親に何か尋ねている。

母親がその娘の腰を抱いて顔を腹の辺りに埋めた。母親の顔の下に、娘の陰毛が見えた。真っ白な陰毛だった。

他の二人も真っ白だった。母親の頭を抱くその娘の顔が見えた。その娘の目は真っ赤だった。

岩井は、階段から後ずさりすると、沢田の部屋に慌てて、しかし音を立てないように気をつけてすべり込んだ。


「さっ、沢田。お前の言ってること、まんざらハズレでもなさそうだぜ」


「何だ。カメラあったのか」


「カメラなんかどうでもいい。おい、あの娘たち白子だぜ。下の毛は真っ白だし、目は真っ赤だ」


「どうして分かる」


「見たんだよ、たった今。来いよ、ほら」


岩井は沢田を促して、そっと部屋を出た。

と、そのとき、すべての明かりが一瞬のうちに消えた。二人は、危うく足を踏み外しそうになったが階段の手すりにつかまった。 階下からは、あの茸の匂いがしてきた。

直ぐに階下のテーブルの辺りに明かりが灯った。蝋燭の明かりだった。


「どうぞ、下りてきてください」


マダムの声がした。二人は恐る恐る階段を下り、マダムに言われるままテーブルの端に腰掛けた。娘たちはいなかった。

娘たちが座っていたと思われる辺りはまだ濡れているらしく、蝋燭の光に照らされて光っていた。マダムが話し始めた。


「今、電話があって、あの娘たちはセンターに行きました。沢田さんでしたわね、あなたの考えていらっしゃることは殆ど間違っていません。この村はバイオテクノロジーの実験を積極的に行っています。それから、人体実験も行っています。微量の放射線は人体にいい影響を与えることを証明するための実験です。ここの村人は皆モルモットにされています。そして、沢田さんのお考えどおり、ダムの横にあるのは水力発電所ではなくて、指令センターです。組合長は、ここのプロジェクトリーダーで、元は便利通信社の役員をしていた人です。ダムの下に設置されているのは、増殖炉型の発電施設です。明日の夜明けまでに燃料が運び込まれ、同時に廃棄物が運び出されます。もうすぐ作業が始まると思います。ここにいると、あなた方もモルモットにされてしまいます。リーダーはサンプルを欲しがっています。だから、沢田さん、早くここから逃げてください」


二人は、マダムの話を聞いて、喉の奥が乾いていくのを感じた。生唾を呑み込んで沢田が口を開いた。


「どうやら、本当の話のようですね。でも、どうしてそれを。それに、どうせ、テレビカメラで一部始終監視されてるじゃないですか」


「そのために電源を切ったのです。もう直ぐ娘たちがセンターに到着します。だから早く逃げてください」


「娘さんたちは、プロジェクトの人間じゃないんでしょ」


「彼女たちはプロジェクトに強制的に協力させられています。それに、彼女たちは、本当は娘ではありません。彼女たちはワタシなのです」


「どういうことなんです、それは」


「わたしと主人との間には子供ができませんでした。それを、作ってくれたのはさっきの組合長なんです。あの子たちはわたしの二つの卵子だけで生まれてきた、わたし自身なのです」


「あなた自身」


「そうです。あの子たちの遺伝子は全くわたしの遺伝子と同じ。つまり、わたし自身なのです。あの子たちは、サンプルなのです。もう、時間がありません。どうぞ、早く」


「あっ、カメラは」


「お持ちください。でも、フィルムは抜き取ってあります」




5-4

二人はマダムに急かされるまま、外に出た。いつの間にか強い雨が降っていた。右手のダムの方を見ると真っ白な大型のトラックやクレーン車が停まっていた。川面は強力なサーチライトで照らされ、ダムの近くの深みを浮かび上がらせていた。岩井は、車に乗り込むとエンジンをかけた。左側の助手席には沢田が座った。パワーウィンドーを開けると、泣き顔になったマダムの顔があった。三人の娘の原型があった。ショートカットの髪に広い額。高すぎる鼻と大きな目と少し厚い唇。そして、顔に似合わない少しごつごつした手が沢田の手の上にある。白い顔をますます白くさせ、目は涙で充血している。

「一緒にいたかったのに」


「今日の昼間のこと、あれは夢だったんでしょうか」


「・・・・いいえ、夢ではありません・・・絶対に後ろを見ないでください。ゲイトが閉まってしまいます。早く」


強い雨の中を、岩井の運転するランドロードーはワイパーをハイにして走った。ゲイトまでは右に曲がり、今度は左に曲がって直線になった辺りだ。岩井は飛ばしている。雨足が速くなったようだ。右のカーブに突っ込む。テイルが少し流れぎみだ。岩井がブレーキを踏む。車が流れる。岩井が逆ハンドルを当てて修正する。岩井はもう一度ブレーキを踏んで車を停めると、後ろを見るように沢田に言った。沢田が振り向くと、ダムの辺りがちょうど見渡せた。強烈なサーチライトの中に川の中から数本のパイプが突き出ていた。クレーン車はそのパイプを吊り上げている。


岩井は、沢田がそれを見たことを確認すると、車を出した。そして、以前にも増して、スピードを上げた。左カーブに差しかかった。岩井のハンドリングでテイルが右に流れた。岩井は逆ハンドルを当てる。今度は左に流れた。また逆に切る。車は安定しないままガードレールに向かう。前方にゲイトが見えた。閉まっている。岩井がブレーキを踏む。車は右にテイルを振りながら左フェンダーをガードレールで擦った。その弾みで左に回転すると、ゲイトに向かって滑り、リアからゲイトに衝突して停まった。前方に、車のヘッドライトが数条確認できた。


そのとき、岩井は、頭の中で響く、ちゃんと帰ってきてねという女の声を聞いた。そのとき、沢田の頭には、妻がトマトケチャップで壁に残していった、FUCK YOU!という文字が浮かんだ。




第六章



6-1

ブザーの音で目覚めると、沢田は手慣れた手つきで裸の体に洋服を着け始めた。午後五時からのプラクティスを始めるためだ。ちょうど十五分後には岩井が隣の部屋からドアを開けて入ってきた。

二人ともしっかりと深い眠りを貪った後のスッキリした顔で階下に下りて行った。

階下のテーブルの上には、アイソタケが皿に盛られて置いてある。プラクティスの前に元気をつけておくようにというマダムの配慮なのだろう。

二人はテーブルに着いて、ちょうど五分で食べ終わるとウェーダーを着けて出ていった。マダムは見送らなかった。 夕食は八時からだから、三時間のプラクティスということになる。


漁協までは車で五分ほどの距離なので、二人は歩いて行くことにした。漁協の直ぐ前には川に下りるための石段がついている。フェンスを乗り越えなくてもいいように、組合長が鍵を開けておいてくれるということだった。

しかも、二人のために、夕方の給餌の時間を遅らせてくれるという大サービスまでしてくれるという。


「どうかな、夕マズメは」


「ああ、この天気ならまずまずじゃねぇか。二匹ずつってところかな」


「そうだな。でかいのが掛かるといいけどな。毛針、もう一本渡しとこう」


「ああ、すまんな。マテリアルとバイス持ってくるんだったな」


「もう取られることもないだろ。10ポンドテストにしてあるんだろ、ティペット」


「ああ、お前と同じ10ポンドにした」


漁協の前までは二十分ほどの歩きで着いた。

左手の石段を下りて川岸に立ったときには午後四時五十五分。ラインをセットし、毛針を結び最初のキャストを開始したのがちょうど午後五時だ。

直ぐに大岩の脇から釣り始める。

水面には魚がフィーディングのためにつくるリングは見当たらなかった。まだ夕食の時間には少し早い。

チャンスは午後六時から夕闇に包まれる午後七時までの一時間。五時からはそれまでの肩慣らしのキャストだ。


渓相はもう頭に入っている。ダム下までのポイントは五か所。今、岩井の立っている大岩の向こうと少し上流のい淵。沢田の側は、今、沢田が立っている大岩の手前と上流のチャラ瀬の上。そして、ダム下の流れ出しの五か所だ。


ダム下には大きな円くて深いプールが青々とした水をたたえている。魚はこのプールに溜まっている。

殆ど流れもなく、ちょうどそれは川の中にできた貯水池のように見える。そして、給餌の時間になると、五か所のポイントに散っていく。

それぞれ、縄張りというか、序列に従った定位置があるらしいのだ。 当然、大物は楽に餌の捕れるポイントに集まっている。

最初に餌の捕れる、競争相手の少ないポイントである、最上流のダム下の流れ出しの中だ。

給餌の始まる時間はいつも午後五時半。最上流にいる大物はその時間までプールの中から出てこない。だが、下流に定位置を持つ魚はその時間に合わせて移動し始める頃だ。魚の中の体内時計は下流に向けての移動を指示しているはずだ。

沢田と岩井の二人は魚が下ってくるまでの間、三十ヤードのロングラインをコントロールしたり、美しいループをラインが描くようにロッドとラインをコントロールしたり、ラインをロールさせて別のポイントへ毛針を打ち込むトレーニングをしたりしてやり過ごした。

魚が動き始めた。生臭い匂いとミルキーな匂いが大岩の辺りに漂い始める。


「この匂い、何とかならねぇのかなぁ。子供のおもちゃみたいな匂いだなぁ」


「俺はあんまり気にならないな。平和な匂いだと思うぜ」


「まあな。危険な匂いじゃねぇよな。でもよ、何ちゅうか、釣り師にゃ似合わねぇだろ」


「で、どうする。遊ぶか」


「お前、ジャコ釣りはやめたんだろ」


「じゃ、上行くか」


「いや、俺はここでまず一匹掛ける。とりあえずボーズを解消してからだ」


「ボーズはないだろ。今日は奴ら、餌抜きなんだから。じゃ、俺は上にいくぜ」


沢田は岩井を置いて上流に向かう。一番手前の大岩のポイントは、沢田のサイドよりも岩井のサイドの方がいいポイントだというのが理由の一番目、未だマヅメには早いというのが理由の二番目だった。

夕マヅメの一時間に勝負を絞る、というのが沢田のスタイルだった。沢田は岩井を置いて川岸の方に向かって歩き、土手を上流に向かった。

歩き始めて振り向くと、岩井のロッドがもうベンディングカーブを描いていた。手を上げて合図する岩井に手を上げて応え、


「貧乏性め」


と呟くと、沢田は歩き始めた。十分程の歩きで淵に着いた。

ここは岩井のポイントだ。淵の様子を窺いながら沢田は歩き続け、二十分もするとチャラ瀬が見えてきた。

チャラ瀬の上がポイントだ。




6-2

チャラ瀬からは、発電所の建物が見える。

この建物からは、村全体が見渡せるはずだ。

発電所から、左岸に位置する漁協までと、漁協から民宿までと漁協から農協までとはほぼ等距離にある。

山側の右岸に位置する研究所までと、研究所から村役場までともほぼ等距離にあるはずだ。

つまり、これらの建物は同心円を描いた線上に建てられていることになる。放射状にレイアウトされているともいえる。そして、その中心は発電所ではなく、ダム下の丸いプールに求めることができる。

もし、そうならば、右岸の山側にもう一つ、農協の位置に当たる同心円上に何らかの建物があるはずだ。それに、ダムの水底には以前「塩味村」と呼ばれていた村の跡の他に何かがあるはずだ。昨夜の夢が夢でなければ、水底には水を冷却材に使用するプラントである蒸気発生器、それに発電機、タービンなどがあることになる。

そして、ダム下のプールの中にあるのは原子炉だ。原子炉の冷却材は水なのだろうか。塩水から重水を作って冷却材にしているプラントもあるが。蒸気発生器にも冷却材が必要なはずだ。

もし、ナトリウムを使っているとすれば、水と反応すると爆発する。そして、もしナトリウムを使っているのなら、高速増殖炉ということになる。

そこまで考えたときには沢田はダム下のプールが見える辺りにまで辿り着いていた。

正面にはダムの壁が立ち塞がっている。

プールの大きさは直径十メートルほど。

そこだけ水の色が違う。明らかに深いことを示している。

深さは何メートルくらいあるのだろうか。円筒状に水中に穿たれたトンネルがこのプールの下にはある。

クレーンが吊り上げていたパイプは燃料棒に違いない。

クレーンはダムの上からそのパイプを吊り上げていたはずだ。ダムの高さは三十メートルはある。だが、パイプは水中からかなりの長さ突き出ていた。

そんなに長い燃料棒があるのだろうか。

それに、原子炉はドーム状の屋根で覆われているはずだ。屋根を突き破って燃料棒が出てくるはずはないから、取り外したのだろうか。それとも最初から屋根などついていないのだろうか。 最新型の原子炉ならそれも可能なのかも知れない。

もし水中にあるのなら、原子力潜水艦が埋まっている可能性もある。ロシアの潜水艦なら日本の商社が輸入していてもおかしくはない。鉄くずとかいう名目で輸入できるはずだ。


沢田は、プールの正面に向かって土手に腰掛けて考え続けた。

マダムは夢の中で、あれは夢ではないと答えた。沢田も、あれは夢ではないのではないかと夢の中で思っていた。

マダムの感触も匂いも未だリアルな記憶として沢田の頭に残っていた。だが、余りにそのマダムの行為はダイレクト過ぎるような気もする。夢精のときの夢のようにも思える。男の想像力の限界のような夢だと思える。

それにしても、マダムの話はどう説明すればいいのだろう。サンプル、モルモット、バイオテクノロジー、プロジェクト、リーダー、センター、人体実験、増殖炉、卵子、遺伝子。キーワードだらけだ。組合長がプロジェクトのリーダー。

三人の子供はマダムの二つの卵子でできたマダムと全く同じ遺伝子を持ったマダム自身。三人の娘はサンプル。村人は全員モルモット。

キーワードの中で納得できるのは、この村はバイオテクノロジーの実験を積極的にやっているということぐらいだ。

アイソタケ、ハクラン、チキン味のジャガイモ、松阪牛、ワイン、そして、巨大岩魚。確かにバイオテクノロジーの産物だろう。 余りいい気はしないが、不味くはない。

毎日食べる気はしないが、物珍しさで食べる分には問題はない。 晩飯を喰ったら、もう帰るのだからいい話の土産になるだろう。アイソタケは土産にしてもいい。めったにこんなことはしないが、クライアントに持っていってやろうか、「ホンのおアイソです」とか何とか言って。


そこまで考えたとき、対岸の桜の木の陰、ダムの端を動くものがあった。白いブルゾンに白いパンツに白い帽子に白い長靴。漁協の職員だろうか。それは、ゆっくりとダムの端に沿って歩いてくると、ニコニコしながら沢田に向かって声を掛けた。


「やぁ、どうも釣らないんですか」


組合長だった。


「ああ、どうも。マヅメのギリギリまで待ってみようと思ってたんです」


「そんな必要はありませんワ、今日は。餌やってませんからな。岩井さんはもう、六匹も釣りましたよ」


「そうですか」


「それに、もう、そろそろ餌をやらないとパニックになってしまいますワ」


沢田が時計を見ると午後六時四十分だった。もう、うっすらと夕闇が辺りを包み始め、空は茜色と紺色が交錯している。明日もいい天気だろう。組合長はゆっくりと沢田の方まで歩いてくると沢田の隣に腰を下ろした。沢田は、完全に監視されていると思った。




6-3

「僕が釣ってないってよく分かりましたねぇ」

「ハハハ、いやね、この上の発電所にたまたま来てたんですワ。それで上から見てたら沢田さんがしゃがみ込んでるのが見えたんですワ」


「岩井が釣ってるのも見えるんですか」


「ええ、そりゃ、もう丸見えですワ。発電所からは、この村全体が見渡せるんですワ」


「ヘエー、一度上ってみたいですね」


「いいですとも。あっ、駄目だ。もう閉まってますワ。六時までなんですワ、一般の人が見学できるのは」


「ダムの上までは行けるんですか」


「ええ、行けますよ。ちょっと怖いですけどね」


「上まで上がってみてもいいですか」


「いいですとも。ダムの底でも覗いて見ますか。釣りはいいんですか」


「ええ、向こう側を見てみたくて」


「な~んにもないですよ。昔の村が沈んでるだけですワ。渇水のときなんかだと、よく見えるんですワ、昔の村が。元々この村に住んでた連中は、そんなときダムの上に群がって懐かしがってますワ。あれは誰それの家だとか、井戸の跡がまだ見えるとか。誰それの庭の柿の木が土砂に埋もれたとか言ってね」


二人が腰を上げかけたとき、岩井の声がした。


「オーイ、沢田ーっ、釣れたかーっ」


見ると岩井は川の中を水を蹴散らしながら小走りに走ってくる。もう、釣るつもりはないようだ。しかも、手には三匹の岩魚をぶら下げている。あんな岩魚をキープしてどうするつもりだろう。白っぽい岩魚は鰓にバンダナを通されて岩井の手にぶら下がっていた。


「オイ、沢田、大漁だぜ今日は」


岩井が、あのミルキーな匂いをさせて近寄ってくる。


「何でキープしたんだ」


「何でって、お前、今夜の晩飯用じゃねぇか。俺とお前とマダムの分だろうが」


「いらないよ、俺は」


「いやぁ、殺してしまったんですか。困りましたなぁ」


「えっ、駄目だったんですか」


「駄目ですよ、岩井さん困りますワ。釣るだけなんですから。この魚は大事なサンプルなんですから。これからどれだけ大きくなるか分かりませんでしょ。それに、どれくらいこの環境になじむかっていう調査もしなければ」


「そっ、そうですか。つい、その、あんまり嬉しかったもんですから。それに、どんな味がするのかと思いまして」


「駄目ですよ喰ったりなんかしちゃぁ。生かしとかなきゃ、何も分からないでしょうが」


「すいません」


「フライフィッシャーなんだろ、お前」


沢田も、組合長の剣幕に押されて岩井をなじった。




6-4

「とにかく、これはお預かりしておきます。明日研究所で解剖して分析結果を取ることにしますワ」

「すいませんでした」


平謝りの岩井の手から組合長は岩魚を奪い取った。

夕闇の中に岩魚の赤い目が見えたような気がした。

夕焼けのせいだったのかも知れない。


「あっ、沢田さん、ダムの上はもう無理ですな。あそこは七時までなんで」


「ええ、結構です。昔の村の跡なんか見ても仕方ないですから」


「じゃぁ、後ほど」


組合長は、下りてきた方にゆっくりと歩いていって桜の木の陰に消えた。

発電所に上がるための石段でもあるのだろうか。


「何だ後ほどって。また晩飯喰いに来るのかよ。あいつ、マダムのコレか」


「かもな。でも、もっと大変な奴かもな」


「何だそりゃ。お前、釣ったのか。バカ釣れだったろうが」


「いや、釣ってない」


「何で」


「考え事してて、組合長がやって来て話してたらお前がやって来たんだもの」


「釣るか。この上はポイントなんだろ。絶対釣れるぜ」


と、岩井が言ったとき、上流の方でかすかなモーター音が聞こえた。給餌器が動きだした音だった。

アイソタケが流れ始めた。波紋が起こった。

その波紋は、上流から下流へ、徐々に移っていった。

静かなディナーの始まりだった。

飼育されている魚たちは、今日も決められた場所で決められた餌を食べるために持ち場で静かに待っていた。餌は川幅一杯に流れていた。

給餌時間の遅れを取り返すために、今日は一度に大量の餌が流れているのだろう。川一面にアブクが浮いて、湯気の下で川が沸き立っているかのように見えた。


と、目の前のプールの上を流れていく餌にポッと炎が立つのが見えた。沢田は岩井を小突いてそれを知らせた。

その炎は一か所ではなく、今度は別の所に上がった。

それは、餌が発火しているように沢田には見えた。今日の餌は何か配合成分が違うのだろうか。水か空気に触れると発火する成分でも入っているのだろうか。燐のようなものとか。


夕闇が一気に辺りを包み始め、その中に上流の彼方から小さな炎を上げながら流れてくる餌の固まりを見ながら、沢田は精霊流しの光景を思い浮かべた。

それは、ダムの下に沈んでしまった村の中から浮き上がってきては流れてきているように沢田には見えた。




第七章



7-1

ディナーはちょうど午後八時から始まった。組合長も着替えをして席に着いていたし、美緒も美央も美旺も来ていた。アペリティフにシェリー、アペタイザーに生ハムとメロンでその夜のディナーはスタートした。その夜のメインはローストポークだということだった。

朝マヅメの釣りをして帰る予定が、自衛隊の演習によってダメになってしまったために、夕マヅメの釣りをすることになったわけだが、前日の疲れのせいで夕方近くまで二人は起きることができなかったわけだから、朝マヅメの釣りができていたとしても、起きられたかどうかあやしいものだった。岩井と自分の部屋で話をしていて、岩井が出ていくと同時に沢田は眠り込んでしまったようだった。岩井が戻ってきたときには寝ていて、ベッドまで引きずり上げるのに苦労したと岩井が言っていた。


「お前、あのときいい夢見てたみたいだったぜ。ニヤニヤして」


「そうか、すまんな。落ちてしまったんだな」


「俺もあの後、直ぐ寝ちまったけどな」


「どうです、生ハムは」


組合長が話に割って入る。


「ちょっと癖がありますね。ハーブのせいか、チップのせいか」


「やっぱりね。実はこの豚、肉より内蔵の方が値打ちがあるんですワ。ヒトの遺伝子を組み込んであるんですワ。ほら、臓器移植用にね。最近すごいニーズがありましてね」


「肉はホルモンなんですね」


「まあ、そういうことですワ。牛の方は内臓がホルモンですがね。やっぱり、ダメですかねぇ」


「いや、ダメって訳じゃないですけど、そのヒトの遺伝子っていうのがどうも」


「拒否反応がなくなるんですワ、組み込んどくと」


「いや、そうじゃなくって、心理的に何だかもう一つ、こう」


「モツ煮なんかもう一つ駄目でしょうなぁ」


「もっと駄目でしょうそれは」


「酸っぱいような味がするんだよな」


「うん、そういえばちょっとそんな気がするな」


「ああ、やっぱり、実はこの肉は五歳の豚の肉なんですワ。ちょっと育ちすぎでね。大きくなると、どうしても酸っぱくなってしまうんですワ。ヒトの大人の肉が酸っぱいようにね」


沢田と岩井はナイフとフォークを置いた。


「いやぁ、どうも。食事中に申し訳ない。そういう話を聞いたことがあるだけでして。どうぞ、メロンでも食べて口直ししてください」


「これには、何の遺伝子が組み込んであるんですか」


「ああ、それはスイカですワ。メロンは旨い。でも、香りづけにスイカの匂いをプラスするともっと旨い、んじゃないかと思いまして。いかがですかね」


「なるほどね。確かにスイカの香りだ。アッサリして日本人好みの味に仕上がってるんじゃないですか」


「そうでしょう。やっぱりね。いやぁ、参考になりますワ、都会の人の意見は」


シェリーがコート・ド・アイソの赤に代わった。美緒と美央が運んできたメインのプレートがテーブルの真ん中に置かれた。豚の丸焼き。内臓はきれいに抜き取ってある。すでにどこかの患者の内臓になっているのだろうか。豚は体格的に人間に最も近いサイズなのだそうだ。確かに、見方によっては戦火に焼かれた村に転がる焼死体に見えなくもない。手を出そうとしない二人を見て、組合長がパーティのホストがそうするように、上手に切り分けてそれぞれのプレートに乗せてくれた。


「どうぞ、これは二歳ものですから酸っぱくはないはずですワ」




7-2

二人は顔を見合わせて、仕方なく一口ずつそれを口に運んだ。確かに酸っぱくはなかったし、上手に焼き上がっていて表面は芳ばしい匂いがしていたし、肉にはちょうどいいくらいの火が通っていたし、グレービーソースの出来も良かった。それにしても、組合長は、なぜわざわざヒト遺伝子の話などするのだろうか。そんな話を聞いていなければ、もっと美味しく食べられたはずなのにと沢田は思った。

「おかしいなぁ、不味いですかね。美味しいはずなんだがな」


「いや、やっぱり、さっきの話のせいですよ、きっと」


「えっ、話といいますと」


「ヒト遺伝子の話ですよ」


「ハハァ、まだ気になりますか」


「さっきの今じゃ気にならない方がおかしいでしょ」


「直ぐ慣れますよ」


組合長は、二人がそれ以上ローストポークに手をつけないのを見て、マダムに向かって言った。


「じゃ、あれ、お願いしますよ」


マダムはうなづくと、席を立ってキッチンに消えていった。後に美旺が続いた。組合長は美旺の背中に向かって言った。


「あっ、美旺、もう済んだんだな」


美旺は振り返ってうなづくとキッチンに消えていった。美央も立ち上がってコート・ド・アイソの白を持ってきた。チキン料理でも用意してくれているのだろう。岩井はその間に隣に座った美緒に話しかけている。同じ体型と同じ顔に同じ声なのに、どこかが違うのだろう。美緒はしきりにはにかんでいる。何を話しているんだと岩井の肩をつつこうとしたとき、組合長が沢田に尋ねた。


「どちらがお好きですか、赤と白は」


「僕は赤の方が好きなんですけど、この赤はもう一つボディがない感じがします。この白はスッキリしていてイタリアの白に近いんじゃないですか」


「癖になるような味がしませんか」


「癖にですか」


「これ、昨夜のと同じなんですが、いかがですかな」


組合長がワインを注いでくれる。沢田は自分のグラスでそれを受け、一口飲んで昨夜の眠りに落ちる瞬間を思い出してテーブルにグラスを置いて言った。


「今夜は赤の気分ですかね」


「じゃ、岩井さんはいかがですかな」


組合長は、美緒との話に割り込むようにワインのボトルを岩井の目の前に差し出した。岩井はそれを自分のグラスで受けると一気に飲み干し、もう一度グラスを満たしてくれるよう組合長を促した。


「ワハハハハハ、岩井さんは白の方がお好きなようだ」


「僕は白でも赤でもいいんです。こいつみたいにうるさいことは言いません」


「ワハハハハハ、結構結構、素直で結構」


しばらくすると、料理が出てきた。それは確かに白ワインに合う料理だった。沢田と岩井はまたも顔を見合わせてしまった。それは、白い大きな皿に乗せられた岩魚のムニエルだった。


「これ、もしかして僕が釣った奴ですか」


「ホホーッ、お分かりですか」


「ええ、この脂鰭の形と大きさに見覚えがありますね」


「ホホーッ、そんなところで分かるもんですか。さすがに釣り人の方は違いますな」


「微妙に違うんですよ、同じサイズの魚でもね。でも、あの時駄目だって仰ってたじゃないですか」


「いや、もうチェックは済んだんですワ。あれから後直ぐに研究所の方に持っていって調べるべきことは調べてあるんですワ。それに、一匹は研究所の冷凍庫に保存してありますから。それに、残りの検査はちょっと時間がかかるんですワ」


「で、食べてみたことはあるんですか」


「それがね、初めてなんですワ。わしら、味がもう一つ分かってませんもんでね。やっぱり食べ慣れている釣り人の方に尋ねるのが一番だと思いますしね」


「いやぁ、岩井も僕も余り食べないんですよ。写真に撮ったり、剥製にしたりとかはするんですけど」


「自分が釣った魚って、なぜか食べる気がしないんですよね」


「ハァーッ、そんなもんですか。でも旨そうでしょ、ここのマダムの料理ならいけると思いますがね」


「何だかモルモットみたいですねぇ」




7-3

 と沢田が言ったとき、組合長のこめかみの辺りがピクッと動いたのを沢田は見逃さなかった。が、直ぐに組合長は気を取り直したように沢田に向かって言った。

「モルモットなんて人聞きの悪いこと言わんでください。わしらもご相伴することにしますから。旨ければもう一匹も料理しますワ」


「アイソイワナの料理サンプルってわけですね」


大皿を引き寄せようとした組合長のこめかみがまた膨らんだ。


「いやぁ、サンプルって言ったって、蝋細工って訳じゃないですからな」


確かにそれは蝋細工には見えなかった。

レモンバターの香りが鼻孔をくすぐり、ほど良く焦げ目のついたあたりは食欲をそそる。バターをたっぷり使うことで、あのミルキーな匂いを消す効果もあるに違いない。

クレソンとシャンピニオンとレモンをあしらった盛りつけもシャレていた。組合長が手慣れた手つきで取り分ける。

岩魚といえば少し赤みがかった身のはずだが、それは白っぽくて透明感のある身だった。運動量が不足気味なせいだろう、皮の下には脂肪の膜が一ミリほど認められる。

肉質は皿のソースの中に浮いた脂を見れば分かる。

皮にも特に目立った損傷は認められない。

色が白っぽい以外は。 組合長は三つの皿にそれを取り分けると、岩井に向かって勧めた。


「岩井さんの記念すべき岩魚ですワ。一口いかがですかな」


「いやぁ、組合長さんこそどうぞ。味見しとかなきゃこれからお困りでしょう」


さすがの岩井も尻込みしている。何か気づいたのだろうか。と、美緒が口をはさんだ。


「私、戴こうかしら」


「美緒、駄目よ。お客様のお食事が済んでからでしょ」


マダムが遮る。


「いや、構わんよ、美緒。お客様が食べる前に試食してみなさい。さ、美旺も美央も」


組合長は、取り分けた三つの皿を三人に回した。三人は何の疑いもなく、ムニエルを口に運んだ。サンプルがサンプルを食べている。美緒が顔をしかめる。


「どうしたの、美緒ちゃん。大丈夫」


岩井が心配そうに美緒の顔を覗き込む。美緒は首を振って、綺麗な眉毛をゆがめて


「しょっぱい」


と岩井に向かって言った。岩井は美緒のフォークを手にすると一切れ突き刺し口に運んだ。


「うーむ、旨い。カステラのような、マシュマロのような、メレンゲのような、メルルーサのような、ココアのような味だ。でも、少ししょっぱい。組合長さん、塩漬けにしてあったでしょ、これ」


「そりゃ、そうでしょ。塩鮭と一緒でしょ、岩魚って。塩焼きの方が良かったですかね」


「塩焼きにするには、でか過ぎますね。素焼きで骨酒なんてのもいいですけど、それにしてもでか過ぎる。フライにするか、ムニエルにするか、刺し身にするかでしょうね」


「ハハァ、つまり、塩漬けにしてしまったのがいけなかったわけですな」


「肉じゃないんですから」


「肉じゃないんですか。そうか、肉じゃないですわな」


組合長が感心したようにうなづいたとき、何かが爆発するような音が外で聞こえた。

爆発は続けざまに起こり、窓が明るくなるほどの光が外に見えた。自衛隊の演習がまた始まったのだろうか。

全員が身を固くしたところへ電話が鳴った。

組合長への電話だった。

リラックスした雰囲気で喋っていた組合長の表情が変わった。組合長は電話を切ると挨拶もそこそこに立ち去ろうとした。

もう一度爆発音が聞こえた。かなり遠いようだ。


「どうしたんです。何があったんです」


「いや、自衛隊ですワ」


「自衛隊がどうしたんです。もう、演習は終わったんでしょ」


「演習じゃないんですワ。誰かが侵入したようでして」


「侵入って、実弾射撃なんてできないでしょ自衛隊は。訓練なら別ですけど」


「いや、あれは照明弾ですワ」


「照明弾ですって」


「ええ、多分、猪かなんかだと思いますワ」


「猪が侵入したくらいで照明弾なんか打ち上げるんですか。それに、あの爆発音はかなり大きいじゃないですか、リーダー」


組合長は、沢田が言ったリーダーという言葉を聞いて沢田を向いて睨みつけた。だが、直ぐに思い直したように踵を返して出ていった。




第八章



8-1

「対策は十分なんですか」

「そう聞いています」


「あれは何だと思ってらっしゃるんですか」


「分かりません」


「冷却材漏れでしょう」


「分かりません」


「まさか、自衛隊に核ミサイル用のプルトニウムを供給しているんじゃないでしょうね」


「分かりません」


「北の攻撃に備えて、パトリオットはそこら中に配備されてます。でも、迎撃だけじゃ話にならないのは常識でしょ。それなら、原発の側で作ってしまえばてっとり早い訳だ。原発の近くには必ず自衛隊が配備されてる訳だから。その実験をやってるんじゃないでしょうね」


「分かりません」


「おい、沢田、お前何の話をしてるんだ」


「岩井、ここは、原発村だ。ダムの下には原発が沈んでる。いや、地下にだ。川もダムもカモフラージュだ。川の下には巨大な原発施設が隠されてるんだ」


「何を馬鹿なことを言ってるんだ」


「岩井、あの組合長はこのプロジェクトのリーダーだ。この村は便通と電力会社と防衛庁の軍産共同体だ。表向きは巨大岩魚の里という観光地を装ってるが、原発、多分、高速増殖炉と再処理施設がある。そして、再処理施設じゃ原爆を作ってるんだ」


「何を証拠にそんなことを言ってるんだ」


「想像だよ。単なる俺の想像だよ。だが、夢で見たんだ」


「夢でだと」


「お前、ここの発電所の撮影はどこの代理店の依頼だ」


「便通だ」


「ギャラ、良かっただろ」


「ああ、それであの車買ったんだ」


「良すぎると思わないか」


「まあな、電力会社は初めてだったんでな、そんなもんかなと思ったんだがな」


「そのとき、二度と行くなとか言われなかったか」


「言われた、確かに。契約書にサインまでさせられた」


「で、何で俺を連れてきたんだ」


「何でってお前、二尺岩魚の魅力に勝てるのか。それに、お前の言ってること、考え過ぎじゃねぇか」


「そうならいいんだがな」


と沢田が言ったとき、また爆発音が聞こえた。今度はさっきよりも近い。爆発音と同時に窓の外が花火のときのように明るくなった。電話が鳴った。マダムが電話に出た。途端にマダムの顔が曇った。三人の方を向いた。


「センターへ来いとリーダーが言ってるんでしょ」


沢田がそう言うと三人が同時に沢田の方を見た。


「発電所はセンター、組合長はリーダー。そうでしょ」


マダムと三人の娘は黙ったまま沢田の顔をまじまじと見つめた。


「そうなんですね」




8-2

「レベル2」

マダムは沢田の問いには答えずに三人の娘に向かって一言そう言った。三人は同時にうなづくと、出ていこうとした。


「美緒ちゃん、何なんだ、一体」


岩井の声に三人が振り向いた。三人のうちの一人が応えた。


「岩井さん、お父さんを助けて」


「お父さんがどうしたんだ、美緒ちゃん」


「お父さんは施設にいます。ここの村の人達はみんな施設に入れられているんです」


「美緒、やめなさい」


「施設って何の施設なんだ。どこにある」


「研究所の奥にあります。私たちは会うことはできません」


「何の施設なんだ」


「元の村の人たちだけが入れる保養施設なんです。でも、なかなか会えなくって。家族と離れて暮らしてるんです」


「モルモットにされてるんだ。プルトニウムの人体実験か、放射線被爆の人体実験か何かだ。村人をサンプルにしてるんだ」


「沢田、一体何の話なんだ」


「想像してみれば分かるだろう。この村は、一大実験場なんだ」


また電話が鳴った。マダムが出る。直ぐに電話は切れた。 「レベル3になりました。沢田さん、レベル4になるとこの建物の全てのドアにシャッターが下ります。そして、レベル5になるとこの建物は地下に沈みます」


「何の話なんです、一体」


「岩井、どうやらこいつは夢じゃなさそうだぜ。多分、ナトリウム漏れだ」


「ナトリウム漏れだと」


「ここの原発は高速増殖炉ですね」


「はい」


「名前は」


「アラジン」


「まさか、あれはもうコンクリート詰めにされたじゃないですか」


「あれは外見だけのことです。中身は、沢田さんの想像どおり、あの川の下にあります」


「ナトリウムは水と一番反応し易いはずじゃ」


「だから、誰も川の下に原子炉があるなんて気がつかないでしょ」


研究所に勤めているという、一番上の美旺が沢田の問いに答えた。 「アラジンは魔法のランプそのものなのです。プルトニウムは無限に増殖してプルトニウムを生み出します」


「でも、耐用年数が足りないはずだ。プルトニウムが二倍になるのに九十年もかかるのに原子炉は三十年しか持たないはずだ。それに、プルトニウムはもう十分過ぎるくらいに世界中に余ってる」


「アラジンのプロジェクトは三年で中止されました。でも、その夢を継続したがった人たちがここに集まったのです」


「世界中の高速増殖炉が閉鎖されたっていうのに」


「ここの研究所には、世界各国から高速増殖炉の研究に携わった人たちが集まってきています。平和利用を推進するためです」


「電気だって余ってるはずだ」


「電気をつくることが目的ではありません。増殖するかどうかを確かめることが重要なのです。世界中でこの村だけがその夢を追い続けているのです」


「美旺さん、君は洗脳されてるのか」


「多分そうだと思います。生まれたときからサンプルとして機能するようにインプリンティングされてるんだと思います」


「君たち三人は、君のお母さんの・・・」


「知っています」


今度は農協に勤めているという、二番目の美央が答えた。


「危険な実験の成果が私たち三人です。私たちはお母さんと全く同じ遺伝子からできています。細胞の一つ一つから全て同じはずです。でも、不思議なことにお母さんと同じではありません。卵子一つ一つの遺伝子情報には違いがあるのです。だから、私たちには個性があります」


「おい、沢田、一体何の話なんだ」




8-3

岩井の頭は混乱してきているようだった。無理もない。岩井は夢を見ていないのだから。いや、やはりあれは夢ではないかも知れない。夢ではないとすると、直接大脳に情報として記憶させられているのはなぜなのだろう。沢田は無意識の内にマダムの顔を見つめていたようだ。沢田の考えに呼応するようにマダムが言った。

「そう、あのとき私が言ったことは夢ではありません」


「でも、どうして僕にあんなことを」


「沢田さんのことを嫌いではないからです」


「それだけの理由ですか」


「沢田、おい」


「岩井、この村は確かに夢の村であることは間違いなさそうだぜ。とんでもない夢の村だがな。この三人はバイオの産物だ。クローンどころじゃない。マダムそのものだ」


「私はお姉さんたちとは違います」


美緒が口を挟む。また、爆発音がして閃光が窓の外を照らした。


「美緒ちゃん、組合長の、いや、お父さんのいるところへ行こう。案内してくれ」


「駄目だ岩井、もしあれがナトリウム漏れなら外はもう汚染されてる」


「いや、この三人だけやるわけにはいかないだろ」


「馬鹿野郎、この三人はサンプルなんだ」


「何がサンプルだ。美緒の父親を助けて何が悪い」


「助けられると思うのか。相手は国家のプロジェクトだぞ」


「何を大袈裟なことを言ってるんだ。研究所の奥の施設まで行くだけのことだろ」


そのとき、部屋中に響く音でブザーが鳴り渡った。断続的な耳障りな音だ。 「レベル4です」


と美緒が言ったとき、部屋の明かりが一瞬暗くなり直ぐにまた明るくなった。送電が停止され、同時に自家発電に切り替わったようだった。モーター音が聞こえた。

シャッターが下りる音なのだろう。


「行こう、美緒ちゃん。早く」


岩井は、美緒の手を取って玄関の方に促す。美旺と美央はキッチンの方に姿を消すと白い防護服を持って戻ってきてテーブルの上に置くと、岩井に着るように言った。岩井は三人と一緒に防護服を着た。岩井の脳の中では、ドーパミンが受容体に放出されているのだろう。沢田はマダムの方を見る。マダムはじっと沢田の目を見つめている。甲高いブザー音が断続的に鳴り続けている。岩井と美緒と二人の姉はすでに玄関に向かっている。沢田もテーブルの上に残った防護服を身につけると踵を返して四人の後を追った。マダムの声が沢田の背中に聞こえた。


「一緒にいたかったのに」




8-4

下りかけたシャッターをくぐって外に出ると、上流のダムの辺りに激しい閃光が上がっているのが見えた。沢田は、動き始めようとする漁協の車の後部ドアを開けて四人の車に乗り込んだ。車が動き始めると、ハンドルを握った美緒が沢田と岩井に向かって後部座席の下にしゃがむように言った。二人は言われたとおりにした。しゃがみ込んだ岩井の上に美旺が、沢田の上に美央が足を乗せて座った。

車は直ぐに漁協の前まで着いた。漁協の前にはゲイトがあり、白い防護服を着た漁協の職員が立っていた。職員の一人は美緒たち三人を確かめると「ご苦労さん」と言ってゲイトを開けた。ゲイトを抜けると、川岸には白い大型のトラックやクレーン車に混じって、カーキ色の自衛隊の車が停まっていた。川岸を行き来する人々は全員防護服を身につけていた。自衛隊員も防護服に身を包んでいた。車はダムの駐車場まで辿り着き、そのままダムのコンクリートの壁の中に吸い込まれていった。壁の一部に入口があり、ダムのコンクリートの壁の中には良く整備された道路がとおっているようだった。殆ど車の揺れを感じることなく向こう岸まで辿り着いたから。


車は発電所の建物を左に見て、林の中のアスファルトの一本道を奥へ進んでいった。発電所を過ぎた頃、美緒は後部座席の沢田と岩井に体を起こすように言った。沢田と岩井は直ぐに体を起こし、岩井は助手席に頭から滑り込んで美緒の隣に座った。左手にコンクリートの立派な建物が見えてきた。研究所だった。研究所を通り過ぎ、少し行くと村役場があった。車はそのまま少し上って、右にカーブした道を進んでいく。道の正面、突き当たりに円形の建物が見えてきた。その建物の回りは木が切り倒されたように裸の土地が見えていた。その建物は、ガスタンクのようにも見えるし、給水塔のようにも見える。保養施設にしたら変わった建て方だ。入口も、窓らしき辺りもシャッターで覆われている。


「これか、その施設ってやつは」


「そうです。ここです」


「お父さんは村役場で働いてるって言ったな」


「村役場なんて必要ないんです。村人は全員この中で飼育されているんですから。私のいる研究所では毎日この施設のサンプルのデータ分析をしています」


「何のデータ分析なんだ」


「放射線が人体に好影響を与えることを証明するためのデータです」


「それと、プルトニウムの人体実験」


「ここではそれはやっていません。でも、同じことかも知れません。この施設は、事故が起こったときに、シャッターが上がり、窓が開くからです」


「だから、ここへ来ようって言ったのか、美緒ちゃん」


「そうです。母からそう聞いていましたから」


ひときわ大きな爆発音が下の方で聞こえた。と同時に閃光が輝き、闇に溶け込んでいた林の梢の輪郭を浮かび上がらせた。ダムの彼方からヘリコプターが識別灯を点滅させながら近づいてきて、ダムの下に泡状の物質を投下している。消火剤だろう。と、正面の入口の回転灯がオレンジ色の光を放って回転し始め、シャッターが上がりはじめた。




第九章



9-1

「レベル5よ、シャッターが上がるわ」

美緒が叫んだ。鉛色をしたシャッターがゆっくりと上がっていく。同時に建物の壁についている窓と思われる部分のシャッターも動き始めた。これも、ゆっくりとした動きだ。きっとこの動きに同調するように「民宿愛想村」の建物は地下に沈んでいっているに違いない。と、屋根の部分にも変化が感じられた。見上げると、ドーム型の屋根が、ちょうど天文台の屋根のように真ん中から二方向に向かって割れ始めた。屋根からは明かりは漏れてこなかった。


正面入口のシャッターは殆ど上がって、入口にある透明の自動ドアが見えてきた。五人は入口に駆け寄った。と同時に自動ドアが開き、中から白い防護服に身を包んだ男が三人現れた。両側の男たちはM16自動ライフルを携えていた。自衛隊だろうか。真ん中の男が五人の前まで歩み出た。両脇の男二人は入口の左右に分かれて立った。


「困りますな、沢田さん。ここは立ち入り禁止なんですワ」


沢田にも岩井にもその声は聞き覚えがあった。ついさっきまで話していた相手、組合長の声だった。


「お前たち三人は、センターに来るように連絡したはずだが」


「ここに、お父さんがいるって本当なんですか」


「美緒、お前の父親は私だろ」


「ここに本当のお父さんがいるって、お母さんが」


「馬鹿め。お前たち三人は、私が創ったんだ。美緒、お前には本当の父親などいない。ここにいるのは、サンプルなんだ。それに、お前たちもそうだ」


「なぜ、私たちを創ったんですか」


「なぜだと、増殖実験に決まってるだろうが。プルトニウムは増殖する。女も増殖する。それを確かめるためには実験が必要なんだ。お前たちは、コピーだ。純粋のコピーだ。」


「私はコピーなんかじゃない」


「美緒、どうやら、私の失敗だったようだな。お前だけは初期情報をインプリンティングしないでおいたのが。連れて行け」


組合長は後ろを振り向いて二人の男に命じた。二人の男は五人の背後に回りながら、建物の中に入るようにM16で指し示した。


「B1、B2はセンターへ」


「分かりました、リーダー」


すれ違い様に組合長が声を掛けると、美旺と美央が返事した。


建物の中は薄暗い照明が中央の放射状に延びた通路を浮かび上がらせている。通路の中心には目の高さくらいの円柱形の台があり、金網で回りを覆ってある。通路は六本が確認できた。通路の両側は部屋になっているらしく、数メートルおきにドアがついていた。もっとよく見ようとしたが、沢田の腕を取って組合長がエレベーターに乗るように促した。エレベーターには階数を表示するものは何もついていなかったが、感じからすると、地下四、五階の深さに思えた。


エレベーターが止まってドアが開くと、透明のビニールでできた通路があった。通路はエアシャワーのようだった。通路を抜けると目の前にムービングウォークが延びていた。ムービングウォークはしばらく行くと、二方向に分かれていた。左は「センター」、真っ直ぐ行くと「コントロール」という表示がしてあった。美旺と美央は左に行くムービングウォークに乗り換えた。沢田と岩井と美緒は組合長の指示で真っ直ぐ延びているムービングウォークに乗った。ムービングウォークが途切れると、エレベーターがあった。エレベーターでまた地下数階を下った。エレベーターのドアが開くと小部屋になっていて、そこで防護服を脱ぐように組合長が三人に指示した。M16を持った二人は防護服を脱がずに組合長に敬礼するとまた、エレベーターで上がっていった。




9-2

防護服を脱いで小部屋を出ると、またエアシャワーの通路になっていた。エアシャワーの通路を抜けると、透明の窓硝子で覆われた部屋が見えた。部屋の中では、工事現場の人たちが身につけるような制服を着た技術者に混じって日本人以外の技術者もコントロールパネルに張りついているのが見えた。組合長はその部屋を通り過ぎて奥へと進んだ。三人はそれに従った。やがて一つのドアの前で組合長は止まると、ドアの右横についている識別器にポケットから取り出したカードを擦りつけてドアを開けると、三人に中に入るように言い直ぐにドアを閉めた。中からはドアは開かなかった。

部屋の中は、椅子とテーブル以外には何もなかった。部屋は録音スタジオのように防音壁になっているらしく、足音の響きすら吸収されて空気が重かった。三人が椅子に腰掛けると同時に、正面の壁の一部が左右に開き、横長のテレビモニターが現れた。テレビモニターは直ぐに電源が入って、組合長の顔が映った。コントロールルームにいるようだった。


「さてさて、君たち三人には困ったものだ。おとなしく魚釣りをしていればいいものを、こんなところにまで足を伸ばしてくるとは。しかし、まあ、ようこそと言っておこう。民間人でここに足を踏み入れたのは君たちが初めてだからな」


「ここがアラジンの内部なんですね、リーダー」


「ほほう、察しがいい。そのとおり、ここがあのアラジンの心臓部だ。君たちには少しの間その部屋にいてもらう。この訓練が終わったら、この村に住むための健全なサンプルになっているはずだ」


「訓練って、あの騒ぎはナトリウム漏れじゃないんですか」


「ほほう、詳しいな。あれは、ナトリウム漏れを想定した訓練だ。勿論、そんなことは起こらないがね」


「訓練には見えませんがね。ものすごい爆発じゃないですか」


「まあ、相当量のナトリウムを使ったからな」


「嘘でしょ、そんなことをわざわざする訳がない。そんなことをすれば、原子炉を停止しなければならないはずだ。そうなれば、また始めからやり直しだ。増殖炉の意味がないじゃないですか」


「だから、停止する必要もなければ、停止するつもりもない」


「止めなければ大変なことになる。核爆弾が爆発したのと同じことになるんじゃ」


「アラジンは止めない。このプロジェクトは世界でただ日本だけが継続していけるプロジェクトなんだ。どんなことがあっても止めてはならないんだ。これは、人類の夢のプロジェクトなんだ」


「IAEAにはもう三年も前にアラジンは閉鎖されたと報告してあるはずでしょ」


「このプロジェクトはIAEAの依託を受けて進んでるんだ。メンバーの中にはIAEAから派遣されている科学者が何人もいる」


「まさか」


突然画面が暗くなり、リーダーの姿がモニターから消えた。コントロールルームはパニックに陥っているのだろう。


「ここを出ましょう」


「美緒ちゃん、出られるのか」


「ええ、多分このカードで。緊急時には逆さまにして使えばいいって聞いてます」


ドアは簡単に開いた。開くと同時に、サイレンの音が耳を襲った。部屋の中にいるときには全く聞こえなかったが、その音は事態が切羽詰まったものであることを示していた。美緒が持っているカードのことさえ忘れるくらいにリーダーは動転していたのだから。




9-3

「で、どうする美緒ちゃん。お父さんのところへ行くのか」

「行きたい。でも、お母さんが心配です」


岩井は沢田の方を見る。


「緊急炉心停止だな。どこへ逃げても同じかもな」


「どうする、美緒ちゃん」


「右へ」


三人は来た方とは逆の右奥に向かって通路を走った。サンレンの音が通路に響きわたる。通路の壁には緊急灯が回転し始めた。少し走ると「原子炉」という表示が右を指し、「蒸気発生器」という表示が左を指していた。あのダム下の青い水をたたえたプールの真下に今いるのだなと沢田は思った。


「美緒ちゃん、地下からお母さんのところまで行けるのか」


「多分行けると思います」


「よし、行こう」


二人は、沢田を置いて走りだす。極限の中で人は何かをせずにはいられないというが、沢田はそのとき、マダムの顔を見たいという思いに支配されている自分の意志に忠実に行動しようとしていることが分かった。きっと、沢田の脳内でもドーパミンが受容体に向かって放出されているのだろう。その生化学反応に突き動かされて沢田も走った。


しばらく走るとCと書かれた壁が見えてきた。遮蔽扉なのだろう。次にBという壁を走り過ぎようとしたとき、扉が動き始めた。リーダーがモニターで見ているのだろうか。それとも、緊急時の自動モードによる作動なのだろうか。とにかく急ぐ必要があることは確かだった。三人はさらに奥へと走った。Aと書かれた扉に辿り着いたときには、それはもう半分以上閉まりかけていた。三人は慌ててその扉に向かって飛び込んだ。扉を抜けるとムービングウォークが目の前にあった。暗い通路の壁面にはナトリウム灯が奥へと連なっている。三人が走り寄るとそれは動き始めた。三人はムービングウォークの上を走った。少し走ると左に行くムービングウォークが見えてきた。何も表示はなかったが漁協に通じているのだろう。三人は真っ直ぐ延びた方に乗り継ごうとした。


そのとき、反対側のもう一本のムービングウォークが動き始めた。三人はその場に身を伏せた。


沢田はムービングウォークの奥を透かして見た。薄暗い通路の奥には人影を見つけることはできなかった。サイレンの音が消えた。遮蔽扉が閉まってしまったのだろう。途端にムービングウォークのモーター音が大きく通路に響き始めた。三人は右奥の陰に隠れる。リーダーなら二人で組み敷くこともできる。だが、例のM16を持った連中ならどうしようもない。やり過ごすことができれば、それに越したことはないが。ままよ。三人は息を殺す。人の気配が近づいてくる。手すりに掴まったまま、ゆっくりと近づいてくる。白い人影が暗がりに浮かぶ。目の前を通り過ぎる。一人のようだ。岩井が飛び出した。沢田も飛び出した。美緒が叫んだ。


「お母さん」


「どうしてここへ」


「リーダーに呼ばれて」


「駄目です。もう遮蔽扉が閉まってしまってます。戻りましょう」


「会いたかった」


沢田はマダムを抱いていた。美緒もマダムを抱いていた。




9-4

「沢田、行くぞ」

岩井が釣りに行くときのような決意を込めて言った。三人はムービングウォークに飛び乗って走った。沢田はマダムを支えるようにして。岩井は美緒を抱き抱えて。ムービングウォークを走り切って、透明の通路、エアシャワーを抜け、小部屋を通り抜けもう一度エアシャワーを抜けるとエレベーターに辿り着いた。エレベーターが上がり始めたとき、大爆発があった。エレベーターが揺れ、電気が消えかけたが辛うじて最上階まで着いてドアが開いた。そこは、「民宿愛想村」の階段下だった。


マダムの話では、この建物はすでに地下に沈んでしまっているということだから、地下二階にいることになる。二階の天井が地上になっている訳だ。四人が二階の階段を上ろうとダイニングルームのテーブルのある辺りまで来たとき、テーブルの正面奥の壁にモニターが現れた。リーダーが映っていた。


「訓練は終わりだ。君たち、もう何も心配することはない。全て予定どおり終了した。所定の持ち場に戻るように。全て平常どおりの運転に戻った」


リーダーは落ち着き払っていた。何事もなかったかのように、淡々と語っていた。画面が切り替わって、一人の男と二人の女が映し出された。二人の女は真ん中の男の肩を両側から抱き抱えていた。美旺と美央だった。リーダーの声が続いた。


「美緒、これが君のお父さんだ。元気にやっている。ここへ来れば会える」


美緒がモニターに歩み寄る。美旺と美央がにこやかに笑っている。真ん中の男も少しやつれはしているがにこやかに笑っている。だが、メイクのあとがかすかに残っている。それに全く動かない。つっかい棒でもされているような感じだ。これは、リーダーにしたら余りいいアイデアとは言えない。沢田は三人に二階に上がるよう顎で促した。マダムは動こうとしない。腕を取るが動こうとしない。


「一緒にいたかったのに」


「一緒にいたかったら、僕と一緒に来るんです」


「私はここにいます」


「駄目です。僕と一緒に来るんです。あなたはいつも自分の意志を捨ててしまう。一緒に本当にいたいんなら、一緒にいることを選ぶんです」


沢田は力まかせにマダムを抱き抱え二階に上る階段を上がっていった。美緒と岩井も続いた。二階に上がり非常階段と書かれた梯子段を上り、天井板の一部を開けると天井裏に出た。


天井裏はそっくり非常脱出用の部屋になっているらしく、防護服や懐中電灯や非常用食料などが整然と並んでいた。四人は防護服を身につけた。沢田と岩井は脱出用ハッチを探した。それは部屋の右隅と左隅の二か所あった。四人は左の隅のハッチ、少しでも遠くに離れたいという心理の結果だろう、から脱出することにした。沢田と岩井は回転式のハンドルを回した。カチリという音とともにロックが外れた。階段に足をかけ、沢田が少しだけハッチを開けると、水しぶきが隙間から流れ込んできた。雨が降っていた。強い雨だった。


沢田はハッチを開けて外を窺った。建物は沈み、視線は地平線の高さにあった。遠くに強烈なサーチライトに浮かび上がる、先端がドーム型をした太い煙突状のものが見えた。それは、ダム下の辺りに見えた。センターにも明かりが見える。すぐ右の手前には、岩井の車が雨に打たれているのが見える。


沢田は岩井に今見たことを説明し、先に行ってエンジンをかけるように言った。岩井に続いて美緒とマダムがハッチから外に出た。最後に沢田がハッチから出ようとしたとき、建物全体が振動するほどの地響きが起こり、地底の奥深くから近づいてくる波動を感じた。沢田は慌ててハッチから出ると前を行くマダムの背中を抱いて車に乗り込んだ。車は直ぐにスタートした。


岩井は強い雨の中をワイパーをハイにして走った。地面がスッと横揺れした。岩井はハンドリングで体勢を立て直す。体に感じる波動が、遮蔽扉を破り、ムービングウォークの通路を抜け、四人の乗ったランドローバーを追って迫って来ているのが沢田には分かった。




終章




終ー1

ブザーの音で目覚めると、沢田と岩井はいそいそと着替えを済ませ、階段を下りていった。朝五時からの朝マヅメを狙うためだ。

コーヒーの芳ばしい匂いが二階の二人の部屋にまで届いていた。ミルクをコーヒーにたっぷり入れ、焼き立てのクロワッサンを口に入れる。毎朝、何も変わることのないメニューなのにいつも新鮮な味わいを覚える。


テーブルには、もうマダムと美緒が着いて二人が降りてくるのを待っている。白いシャツに白いスカートに白いエプロンに白いストッキングに白い靴。二人ともまったく同じ服装をしている。白いソーサーカップに白いピッチャーに白い皿に白いテーブルクロスに白い花瓶に白いバラ。いつもと何も変わらないテーブルセッティング。そして、デザートにはアイソタケ。沢田と岩井は二、三個それを摘むと立ち上がってテーブルを回ってマダムと美緒にそれぞれキスすると玄関に向かった。マダムと美緒は二人を追って玄関までやってきて、声を揃えて


「お気をつけて」と言った。


二人は玄関を出ると直ぐ右に曲がって漁協の方へ歩いていった。


「今日はどうかな、沢田。もう、メーター級が上がってもいい頃なんだがな」


「ああ、俺が釣ってやるよ。メーター級でも二メーター級でも」


「おい、今日は反対側のバンクがお前だったかな」


「えーと、そうかな。俺は右側の方が得意なんだがな。ま、下に行けば分かるさ」


「そうだな。まあ、同じ数だけポイントはある訳だしな」


漁協の前にはピッタリ二十分で着いた。そして、左手の石段を川岸まで下る。いつもと何も変わることのない日課だ。石段を下り、フェンスを見る。今日は左にI、右にSのプレートが掛かっていた。扉は開いている。


「どうやら、今日はお前が反対側のバンクらしいな岩井」


「ラッキー。俺、どうも相性がいいんだよなあっちの方が」


「俺も右の方がツイてるからな」


「最初のインスピレーションって奴だな、こりゃ。お前がマダムを選んだような」


「そういうことかな」


「いくぞ、沢田」


「おい、今日は賭けないのか」


「おお、そうだ、よし、アイソタケ一皿」


沢田と岩井は扉の前で右手を握り合うと右と左に分かれて川に入っていった。川からはいつものように湯気が立ち昇り、朝靄のように見えた。二人が湯気の中に消えてしまうと、扉が自動的に閉まった。扉が閉まるとブーンという音がフェンスから聞こえ始めた。吹く風が近くの灌木の枝をざわめかせ、葉っぱのついた小枝をフェンスに落とした。小枝はフェンスに当たる前に、バッという音をたてて弾き飛んだ。


二時間後、大声でわめき立てる沢田と岩井の声が川岸から聞こえてきた。フェンスの扉が自動的に開いた。石段から白い洋服を着た男たちが下りてきた。男たちは全部で五人いた。五人の男たちは扉の前に横に並んで、沢田と岩井を待った。沢田と岩井の姿が見えてくる。


「いやぁ、残念だったなぁ。あれを上げてりゃなぁ」


「へへぇ、だから言っただろ、ツイてるんだって」


「九十九センチだもんなぁ、参った」


「ファイトもなかなかだったぜ」


「だろうなぁ、よく上がったな、7番で」


「限界だな、もう。10番のダブルハンドくらいはほしいな」


「そうだよな、ティペットも0Xだな」


「フックも、もっとでかいのがいるぜ」


沢田と岩井が扉の前に現れると、五人から拍手が起こった。五人全員がニコニコと愛想よく二人を迎えた。


「いやぁ、残念でしたね、岩井さん。あれを釣ってれば、今日は岩井さんの勝ちだったかもしれませんな」


「見ててくれました、組合長。きっとあれ、メーター級でしたよ」


「そうでしょう、そうでしょう」


「釣り味の方、どうですか」


組合長の隣の男が口を利く。




終ー2

「いいんじゃないですか。ナチュラルって感じで。なあ、沢田」

「そうですね、出来るだけ水面上でファイトするようにした方が一般受けはするでしょうね。派手な方がいいんです」


「まだ、持ち込むようなファイトしてますか」


「ええ、まだ少しね」


「雌ですからねぇ。だいぶ男性ホルモンの量は増やしてるんですが。あんまり増やすと成長が止まってしまうんですよ。それに、直ぐに死んでしまうんです」


「ははぁ、難しいですね」


「色の方はどうですか」


「良くなりましたねぇ。背中の色と体側、腹部のカラーバランスなんか名人芸ですよ。後は鰭と目ですね。兎の目みたいでしょ」


「分かってるんです。でもこれが難題なんです。どうしても色素が少ない部分の改良というのは難しくって」


「おい、君、よく釣り人の方の意見を聞いてちゃんとやらなきゃ。難しい難しいばかりじゃ話にならんだろ」


「はい、分かっております。できるだけ自然種に近いものと交配させて、近日中に解決するようにいたします」


「うん、頼むよ。もう日にちがないんだからな、オープンまでに」


「はい。分かりました」


「あのう、川のレイアウトはどうでしょうか。何か問題はありませんでしょうか」


「あるよな。な」


岩井が沢田の方を見る。沢田は少し考えてから答えた。


「ダム」


「えっ、ダムですか」


「ええ、あの壁が気になります。あれ、なくせないんですか」


「そうそう、あれ、嫌なんですよね。何だか息苦しくって。上流に向かって釣り上っていくのが渓流釣りの醍醐味な訳で、どこまでもどこまでも上っていきたくなる渓相って一番大事なことなんですよね」


「あの壁って、あそこで全てが終わりって感じがしますよね」


「ははぁ、それは全く気がつかないことでした。続いている感じですか」


「そう、どこまでもどこまでも未来永劫続いてる感じですよね」


「でないと、こう、何だかアウトドアスポーツの解放感っていうのがそがれるでしょ」


「なるほど、分かります。で、例えばですけど、滝なんかどうでしょう。例えば、横尾忠則さんなんかに壁画を描いてもらうとか」


「もっと自然な感じな方がいいんじゃないですか」


「なるほど、じゃ、両脇にでっかい岩を置いて、真ん中から実際に水を流すとかいうことですか」


「そうですね。ディズニーランドみたいになっちゃ困りますけど、その方がうんといいんじゃないですか。ダムで行き止まりになるよりも、滝で行き止まりになる方が渓流釣りらしくって」


「ははぁ、それは気がつきませんでしたなぁ。わしらはダムというと、それ自体で美しいもんだという頭がありますからな」


「組合長、それは古い発想でしょ。ここで一番違和感があるのはあのダムですよ」


「君、よく聞いて直ぐ改良するんだぞ」


「はい、分かりました」


「いやぁ、参考になりますワ、本当に。あっ、申し訳ありませんな、立ったままで。さぁ上に上がってお茶でも飲みましょう、さっきのお二人のビデオでも見ながら」




終ー3

漁協の職員五人と沢田と岩井は石段の方に向かう。扉が自動的に閉まって、またブーンという音がフェンスから聞こえ始めた。夜はすっかり明けきり、強い片光が男たちの横顔に照りつけ、今日も暖かないい日になるだろうことを予感させた。

漁協に入り、沢田と岩井がソファに腰を下ろすと直ぐにお茶が運ばれてきた。ロングヘアを後ろで一つに三編みにまとめた、背の高い女だった。白い上着に白いスカートに白いエプロンを着けている。女が丁寧に二人に向かってお辞儀をして去っていくと、目の前のモニターにスイッチが入って、さっきまでの二人の釣りを映し出す。


それは、漁協前の石段を下りてきて、フェンスの扉を入る前の右手を握り合うシーンから始まった。ロングとアップを自在に組み合わせた、上手に編集された映像だ。川の音、独り言、木々の音、などが随所にインサートされ自動編集されたビデオはBGMすら流れてくる。とりわけ、岩井が逃がすシーンと沢田が釣り上げるシーンとを対比させながら進んでいく構成は、引き込まれるものがある。もちろん、釣り師は自分が釣っているシーンと魚にしか興味がないのだから、決して難しいドラマツールギーが必要な訳でもないのだが。モニターに見入っている二人に組合長が呆れ顔で声を掛ける。


「いやぁ、本当にお好きですなぁ。見飽きたりしないんですなぁ」


「そりゃそうですよ。釣り師は釣ってる画さえ見てれば満足なんですから。それにしてもよくできた編集ですねぇ」


「ええ、スポーツエディションっていうソフトなんですワ。これ、ゴルフでもテニスでも何でもいけるんですワ。最初にメインターゲット名をインプットしておくんですけど、後でも変えられるんですワ」


「カメラ台数が違いますよね」


「ええ、メインが四台にサブが四台ですワ。光の角度と量を割り出して自動露出で撮影してます。それと別に音録用の集音マイクが二台で、カメラが拾った音と同調するようにセッティングしてあるんですワ」


「これもやっぱり便通ですか」


「ええ、一式便通さんですワ」


「ちょっと画が綺麗過ぎるきらいはありますね、いつも光が当たってるから。もう少し自然な方が・・・」


「おい、君、ちょっと」


組合長が奥のモニターの前に座っていた男に声を掛けると、その男は直ぐに立ち上がって沢田たちの方にやって来た。


「もう少し自然にだ」


「はい、ちょっと待ってください」


男は奥に消えるとモニターの前にあるテーブルの上のスイッチを倒した。画面の粒子が突然荒くなり、16ミリで撮影したフィルムのような映像に変わった。デジタル処理で一瞬の内に大脳が受け入れやすい映像に変わった。


「おお、こっちの方がシズル感、ありますよ」


「そうですか」


「確かに、釣りのシズル感というか、男のロマンというか、ベタッとしない立体的な心象風景としての映像って感じはしますね」


「なるほど、おい、これでいこう」


奥の方で男がうなづくのが見えた。その視界の中を、さっきの女が盆を持って近づいてくる。盆の上には何か乗っている。女がテーブルの上にそれを置いた。アイソタケに似ているが、あのミルキーな香りはしない。色も心なしか黒っぽい。その隣には抹茶だ。


「お茶に合うんですワ、それ。新商品でね。わしらは気に入ってるんですワ」


「アイソタケみたいですけど」


「そうそう、ベースはね。ただし、香りの方で差をつけてみたんですワ。和三盆の味、つまり、京菓子の味わいですな。これは苦労したんですワ」


組合長が喋り終わる前にソファの横に一人の男が立っていた。愛想の足りない、あの学者のような風貌の男だ。


「そのお薄と食べてみてほしいんですが。京都のお菓子屋さんからの注文なんです」


「しかしまあ、手広くやってらっしゃるんですねぇ。こんなものまでねぇ」


「そりゃ、そこがこの愛想村の底力ですワ。ここで考えられないものはありませんワ」


二人は抹茶をすすり、「新商品」を口に入れた。仄かな甘さが抹茶の苦みと香りを引き立てる。完全なるお茶菓子。二人は男に向かってうなづいた。男はホッとした顔で組合長の顔を覗き込んだ。


「いけますか」


「何だか懐かしいような味です。もう名前はつけたんですか」


「ええ、愛想村の夢、ですワ」


沢田と岩井は壁の時計を見た。午前八時少し前。そろそろ迎えにやって来る頃だ。沢田が入口の方を振り向くと、そこにはもう二人の迎えが来ていた。マダムと美緒は入口で立ったままニコニコしながら話を聞いていたようだ。岩井は美緒に手を上げて応えた。


「おや、もうそんな時間ですかな。今日は色々とお尋ねしてしまいましたからな」


「いえ、楽しかったです。毎日毎日違うことがあって飽きませんよここは」


「そう言ってもらうと有り難いですな。車でお送りしましょう」


「いえ、歩いていきますよ」


「そうですか、じゃ、また、夕マヅメに」


沢田と岩井の二人は組合長と漁協の職員全員に挨拶すると漁協を後にした。


岩井は美緒の肩を抱き、沢田はマダムの肩を抱き、四人はゆっくりゆっくりと春の光溢れる川沿いの道を「民宿愛想村」に向かって下っていった。










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