ワイヤード・ラブ




第一章



1-1

雨が降り続いている。この雨は、もう、二週間も降り続いている。大粒の雨になったり小降りになったりしながらも、一度も降りやむことなく降り続いている。なぜこんなに雨が降り続いているのかはよく分からない。気象台もそれは分からないと言っていた。

ところで、僕はつい最近誕生日を迎えた。二十歳になった。

二十歳になったのだが、二十歳になったという実感も感動もない。かったるいという思いだけがある。

目を閉じると眼底の辺りが痺れている感じがしていて、この感じが後どれくらい続くのだろうかとか、指先の、特に右の中指の指先の軽い痛みがひどくならなければいいとか、左上の奥歯の周りの歯茎が少し腫れていて、この腫れはちょうど雨が降り始めた頃から始まったとか、両足の小指の横に出来かけている魚の目が時々靴と擦れて、その成長を知らせてくることとかはとてもよく実感出来る。

特に毎日沢山歩くというわけでもないのだが、何故か、いつの間にか魚の目が出来ていて、それがいつ出来始めたのか、その兆候がいつからあったのかは全く思い出せない。


今日も雨は降っていて、最初に降り始めた時に、乾いた窓硝子に降りかかる時の様や、窓硝子全部が濡れてしまって、一定の水の流れが出来てくるのを眺めながら、シャワーの水がバスルームの壁に当たる様と良く似ていると思ったりした。


きっと今日もここに座ったまま一日が終わっていくのを見ることになるだろうと思う。誰かから連絡があって、とても興味のあることがあったらどうなるかは分からないけれども、今までそんなことはなかったし、今日もあるような予感はしない。もっとも、今までに予感と呼べるようなものを感じたことはなかったし、これかな、と思えるような経験もない。


感動ということが、人間の喜怒哀楽のことだとすれば、僕にはそれが欠如しているのかもしれないと最近思うようになった。最近というのは、昨日のことだ。昨日が特にそれを思いつくのに適した日だったのかどうかは分からない。

でも、そう思ったのだ。昨日が特別にバッドだったとは思えない。いつもと同じように眼底の辺りが痺れていたし、右手の中指の先は骨からズキズキしていたし、左上の奥歯の周りは腫れていたし、魚の目は成長の信号を送っていた。


>明日は僕の誕生日で~す!


と言った時から、僕たちの関係に決定的な変化が起きた。

僕たちは、誰かの誕生日がいつなのかとか、幾つになるのかとかに関心もなくやってきたのだ。自分の都合のいいときに都合のいい相手と自分勝手な話をする。そんな当たり障りのない話を続けるには、それなりの根性がいるのだ。相手に見破られないようにしなければならないし、自分が演じるキャラになりきるには、それなりの研究もしなければならないし、知識だって必要なのだ。


でも、時々、いつの間にかキャラを取り違えてしまったりするので気をつけなければいけない。

というのは、僕は四つのキャラを持っていて、気分によって相手によって使い分けて楽しんでいるのだ。

このキャラだったらこんなことを言うだろうとか、こんなふうな思考回路をたどるはずだとか、想像しながら話を進めていく。でも、同じようなことをしている連中は他にもいるようで、とんでもないところで出会ったりして、そのキャラで通そうとしてもバレてしまうことがある。なぜバレてしまうのかといえば、違うキャラを演じていても、決まり文句みたいなものがあって、アレッ、と思う時があるのだが、こんなときにブラフの質問をされたりしてしまってバレてしまうわけだ。


僕も時々知り合いを探しにいくのだけれど、同じように僕を探している相手もいたりするとなかなか巡り合えないこともある。 振り返ったらあるのに、いつまでも自分の勘だけで探し物をしている時のように、捜し出すのにわざと時間を必要以上に費やしている時のように、論理的な思考を拒否していることに快感を覚える時のように、そのことを楽しむこともある。でも、何も成し遂げようとは思わないし、何かを成し遂げることに意味を感じてもいないのだ。


僕は生まれてきてから論理的に生きてきたとは思わないし、論理的に生きることに意味を感じたこともなかった。何もかもうまくいっていたわけでもないし、何もかもうまくいかなかったわけでもない、と思っている。


僕が嫌いな言葉は「努力」という言葉で、温泉地なんかに行くと、なぜか太い墨文字で書かれたこの二文字が額に入っていたりなんかするのを見ると、燃してしまいたくなってくるほどだ。だから、努力したことはなかったと思う。好きなことがあれば、努力も惜しくはないはずだ、とよく言われるのだが、好きなことがないのだから仕方ない。


とにかくその日、僕は


>明日は僕の誕生日で~す!


というメッセージを送りたくなったのだ。理由は分からないのだけれど、そして本当にその日は僕の二十歳の誕生日の一日前だった。僕のメッセージへの応えは、


>ボクもで~す!


だった。僕はその時、とっても嬉しかった。というのも、僕は同じ誕生日の友達にそれまで会ったことがなかったからだ。

もっとも僕は友達と一緒に何かをするということがなかったし、友達をつくるということにも熱心ではなかったので、もしかしたら同じ誕生日の友達が近くにいたのかも知れないのだが、今までは知らずにきたのだった。だから、


>ボクもで~す!


という応えを見た時にはちょっとクラッときた。誰?っと思った。で、いつですか?っと思った。

なぜそう思ったのかは分からないけど、その時にはそう思ったのだ。そして、時計を見た。その時は、もう、午後十一時を過ぎていて、翌日までに一時間もなかったのだ。その残り一時間の間に、僕たちはとても沢山のことを話した。でも、僕たちは友達になることは出来なかった。


>ボクもで~す!


という言葉は、とてもゆっくり発せられた。

それは、まるで僕が送ったメッセージのこだまみたいに、一拍置いて返ってきた。一時間の会話はとてもゆっくりとしか出来なかった。

相手は一旦よく考えてから返事を返してくるようだった。なぜ相手が、


>ボクもで~す!


と切り出したのかは二十分後には分かった。僕は僕が、


>明日は僕の誕生日で~す!


というメッセージをなぜ発したのかも同時に分かった。僕にはその時、僕をアピールする方法がそれしかなかったのだ。でも、相手はよく考えてから >ボクもで~す! という応えを返してきたのだと思う。


今考えてみると、相手の誕生日は僕と同じだとは思えない。相手ということしか言えないのは、名前が今ではもう分からないからなのだ。突然応えを返してきて、突然消えてしまったのだ。翌日、つまり僕の二十歳の誕生日から消えてしまったのだ。いろんなところを探してみたのだが、どうしても見つからなかった。探していることを掲示板にも出してみたのだが連絡はなかった。そして、今もまだない。




1-2

僕たちは沢山の事を一時間の間に話した。どんなふうに生まれて、どんなふうに暮らしていて、どうなふうなことを考えているかといったことは全く話さなかった代わりに、どんな誕生パーティーをしようかということを一所懸命に話した。

相手の好物は果物の寒天寄せで、特にメロンを小さく刻んだものを透明の寒天で固めたものが大好きだと言った。ゼリーは嫌いなのかと聞くと、相手は、ゼリーは舌触りが滑らかではないので好きではないと応えた。同じようなものなのにと僕には思えたけれど、その時にはなるほどネとなぜか思った。僕はゼリーとか羊羹とかが好きではないので、その違いがよく分からなかったのだと思う。

次に飲み物の話をした。二十歳になるのだから、ワインとかウィスキーとか日本酒とかを飲もうと言ったら、相手はアルコールは飲めないと言った。僕だってこの歳になるまで何度かアルコールにはトライしていて、そんなに美味しいものだと思ったことはないけれど、全然飲めないというわけでもない。

だから、もう大人なんだから飲んでもいいんだと言うと、野菜ジュースなら飲むという応えだった。


次にディナーの話をした。

ちょっと豪華にいこうよと僕は提案した。

相手はヨーグルトがいいと応えた。僕はフランス料理屋にでも行こうよと言ったので、この応えにはちょっとクラッときた。それって、デザートじゃないかと言うと、相手は、好きなのです、と応えた。僕は、まっ、いいかと思った。

次にレストランの話をした。相手は行きたくないと応えた。でも、僕は、譲れないと思った。メロンの寒天寄せと野菜ジュースとヨーグルトなんてメニューのあるレストランがあるとは思えなかったけど、何と言っても二十歳の誕生日なのだ。

ワインを飲んで、フランス料理のフルコースを食べて、デザートにはチーズくらいはと思っていたのだ。テーブルクロスはピンクでテーブルには同じピンク系の花、例えばスイートピーとかが飾ってあって、と思っていたのだ。


僕たちはそのレストランの前で待ち合わせた。そのレストランは二十四時間開いているのだが、夜中を過ぎてからの方が混雑しているので予約しておく必要があった。

テーブルセッティングはあらかじめ伝えておいた。メニューは行ってから伝えることにした。


僕はレストランの前でメッセージを持って待っていた。僕はここにいます、というメッセージは幸い他にはなかったので、見つけてくれると思った。相手は行きたくないと言っていたから少し不安だったけれど、きっと来ると思っていた。

待ったかい?という応えがあったのは、五分に少しでなるくらいの時間が経ってからだった。


僕はその日、白いスリーピースのスーツにバタフライをつけ、白い靴を履いていった。相手がすぐに分かるだろうと思ったのだが、他にも同じような格好をした奴がいて分かりにくくなったかも知れない。

相手は少し探したと言った。僕は謝った。相手は黒い洋服を着ていた。それがスーツなのかどうかは分からなかった。全体に黒っぽい印象の洋服だったという記憶が残っていると言った方が正確な気がする。

僕は入口で少し予約の時間に遅れたことを告げて、テーブルに案内してもらった。

テーブルは予約したとおり、ピンクのテーブルクロスに、スイートピーかどうかは分からなかったが、ピンクの花が飾ってあった。


僕はロゼのワインを注文して、相手はニンジンジュースを注文した。ソムリエがニンジンジュースですか?と聞いたので、僕は、相手がアルコールを飲めないのだと言った。相手は、飲まないのだと訂正したのだが、それがゆっくりだったのでソムリエはもう踵を返した後だった。


僕たちはロゼのワインとニンジンジュースで乾杯して、僕たちの二十歳の誕生日を祝った。相手は日にちがもう変わったから今日はもう少ししかない、と言うので、僕はまたクラッときた。 その日は始まったばかりだったし、乾杯の時にそんなことを言う相手の気持ちが分からなかった。


時間がない、と言うので、今来たばかりだと言うと、もう帰りたいと言う。僕は意味が分からなくなった。僕も相当な気分屋だが、相手はうんと上手だった。

何か気に障るようなことを言ったのかと考えてみたが思い当たらなかった。

メインのメロンの寒天寄せはなかった。仕方がないのでメロンだけを注文した。

ヨーグルトがあるかどうか聞いてみるとあると言うので、一緒に注文した。僕はロゼのワインをもう一杯頼んだ。


アラカルトのメニューで子羊の脳味噌のパン粉焼きというのを注文したのだが、本当の味がどんな味なのか知らなかったので、味わいながらどんな味なのだろうと考えていた。

相手はゆっくりとニンジンジュースを飲みながら、不味いと言った。砂糖を入れるかどうか聞くと、砂糖は嫌いだ、と言った。僕がどんなニンジンジュースが美味しいの、と聞くと、自宅の庭に植えてあるニンジンを使ったジュースだと言った。生まれた時から飲んでいるのだとも言った。


僕はニンジンジュースを飲んだことがなかったので、美味しいニンジンジュースと不味いニンジンジュースの違いが分からない。だから、幸せだと思った。

メロンもヨーグルトも大分前からテーブルに並んでいるのだが、相手は食べようとしなかった。ニンジンジュースが不味かったので期待出来ないと思っているのかと思っていたら、ゆっくりと相手は口に運び始めた。あまりそれがゆっくりだったので僕は少しイライラした。僕はレストランを出たかったのだ。

でも、相手は本当にゆっくりゆっくりとだが食べていたので待たざるを得なかった。おまけに、食べているときは一言も口を利かないので、僕は相手が食べているのを見ているしかなかった。


それでも、どうにか食事は終わったようだった。僕は踊りたくなった。

近くにディスコがあるから行こうと誘ったが、踊れないから嫌だと言う。

音楽の聞ける店に行こうと言うと、音楽は嫌いだ、と言う。

じゃ、映画は、と言うと、行くと言う。僕は映画になんか行きたくなかった。映画を観ながら話なんて出来っこないからだ。

僕は気づいていたのだ。好き嫌いの多いこの相手はタカラヅカだと。

僕は相手がゆっくりと食事をしている間、顔を覗き込んでいたのだが、唇の薄い紅に気がついていた。最初は気にしていなかったのだが、あまりゆっくりと食事をするので、僕は相手の口元ばかりを見ているしかなかったからだ。


僕は相手を公園に誘った。その公園は広くて、恋人たちが話をする場所が沢山あることを知っていたからだ。しかも、ベンチの横にメッセージを出しておけば、誰も邪魔をしないことになっていたから、空いていれば最高の場所にすることが出来るのだ。相手は一拍置いてから、行く、と言った。


勘定をしながら空いている場所を探した。二か所空きがあった。どこでも同じことなのだが僕は少し迷って一か所をクリックした。

どこでも同じことというのは、あらかじめ決められた環境があるわけではないからだ。圧倒的な人気は川辺と海辺で、空いている環境を選ぶのにちょっと手間取ったが、「ニューヨーク・マンハッタン・ハドソンリバーの夕方」を選んだ。


本当は僕はそんなところに行ったことはないのだけれど、その日はそんな気分だったのだ。

何しろ二十歳の誕生日だったから。

それに、相手の化けの皮を剥がしてやろうという気持ちが強かったからそんな場所を選んだのだと思う。

それに、木があって川があって、遠くにビルがあるのだろうということくらいは想像出来た。

これで相手を口説く環境は整った。

口説く?誰を?とすぐに思い直したがそんな気分になったのが不思議ではあったが理由を考えることはしなかった。きっと少しだけハイな気分だったのだろうと思う。




1-3

僕がベンチに座って待っていると相手がやって来た。やはり同じ黒っぽい洋服を着ていた。僕は気分を変えて、ピンクのセーターを着て行った。「ニューヨーク・マンハッタン・ハドソンリバーの夕方」は、着て行ったピンクのセーターにピッタリで、川面はスモッグのせいでオレンジ色ではなくピンクとパープルの中間の色だった。風が少しあることがベンチの上に長く垂れ下がった樹の枝が揺らいでいることで分かった。

僕は枝が顔に当たらないような位置に座っていた。相手はその僕の隣にかなり距離を置いて座ったから、最終電車で出来るだけ離れて座るサラリーマンのようなレイアウトになった。待ったかい?と相手が言うので、否定した。僕は、少しは相手のスローな動きに合わせられるようになったのかも知れないと思った。ここには来たことがあるかどうか尋ねると、初めてだということだった。僕も初めてだった。これで、この環境についての会話は無理だなと思った。


僕は単刀直入に尋ねることにした。とにかくスローな相手だから、回りくどいことをしていたら、時間がいくらかかるか分かったもんじゃないと思ったからだ。時間は僕にはいくらでもあったのだが、イライラするような時間の遣い方は好きじゃなかったからだ。一番聞きたかったことは、何故そんなにスローなの?ということだったのだが、この質問はしないでおいた。これを聞いてしまって、黙り込まれたらわざわざこんなところまで来た理由がなくなってしまうと思ったからだ。


>君、スポーツは好き?


僕は最初にそう聞いたのだ。なんてつまらない質問だったのだろう。僕自身スポーツは大嫌いで、もし、野球やサッカーの話を相手がしてきてもつまらなかったに違いないのになぜかそう聞いたのだ。


>ボク、スポーツはしない


僕は良かったと思った。スポーツをする人間と話をすることなんて全く意味がないと思う。スポーツをする人間の、粗野で結果だけに終始する会話には興味が持てなかったからだ。でも、同時にしまった、とも思った。なぜこんな意味のないことを聞いているのだろうか。その時聞こうと思っていたことをすぐに口にするのがはばかられたことが、そんな意味のないことを喋らせたのだと思う。僕はその時、こう聞こうと思っていたのだ。


>君、女だろ?




第二章



2-1

それは何の前触れもなく起こった。

ボクが寝ようとする時間と母が起き出す時間とはいつも交差していて、その日も起き出してきた母が、ボクに向かって何か叫んでいた。母はいつもボクに対して何か叫んだり怒鳴ったりしていた。

だが、その日は母の怒鳴り声が悲鳴に変わった。

強い衝撃とともに、ボクは一瞬床ごと足元から持ち上げられた。二度三度それが続くと次に同じ強さで今度は横に揺られた。 二度目の横揺れで天井が落ちてきた。天井に吊ってあった二灯の蛍光灯が机の上に落ちてきて目の前で弾け飛んだ。机の上に乗っていたものがスッと平行移動して床の上に投げ出されるのとほとんど同時だった。

ボクは慌てて机の上に突っ伏した。瞬間、背中と後頭部に何か固いものが飛んできて当たるのを感じた


小さな揺れがしばらく続いてから、頭を上げようとすると二階の梁がちょうど頭の上に落ちていた。お辞儀をするような格好で体を後ろに少しずつずらしていってやっと体を真っ直ぐにすることが出来た。

頭には壁土が振りかかっていて、土煙が舞っていた。ボクはゆっくりと腕を持ち上げ、一つずつその壁土の固まりを頭から退けていった。壁土と一緒に、腐ってしまった平べったい竹や縄のかけらも退けていった。


机の端になぜかキーボードが引っ掛かっていて、コードが机の下に伸びているのが見える。蛍光灯のかけらでどこか切ったのだろうか。机の上に黒いシミが点々と飛び散っている。指で触って舐めてみると錆びた鉄の味がする。


また横揺れがやってくる。目の前の梁につかまろうと両手を伸ばしたが間に合わなかった。

机の縁に沿って左右に振られた。机の縁を両手でつかんだ。そのとき、蛍光灯の破片をつかんだまま振られたものだから、両手が切れてしまって机の上がヌルヌルしている。

ボクは着ていたパジャマの胸の部分に両手を持っていって指を擦った。擦ると、指のあちこちがチクチクした。きっと蛍光灯の細かいかけらが刺さってしまったのだ。


薄暗がりの中、土煙が落ち着いてきたらしく、少し遠目が利くようになった。

母はボクに向かって何かを怒鳴りながら、狭い台所でお湯を沸かしていたはずだ。母は起きると真先にお湯を沸かしてお茶を飲む。台所とボクの部屋を仕切っているガラス戸は台所の側に吹っ飛んでいる。そして、その代わりに二階の天井がボクの部屋と台所を区切っている。母は。

母が見えない。ほんの少し開いている隙間に顔を寄せる。急須が目に入った。急須の把手に指が引っ掛かっている。

母の手だ。急須の蓋が開いていて、安物の、開いてしまったお茶の葉が母の手にくっついている。少し視線を動かすと腕が梁の中に消えている。梁は片方をボクの机で支え、片方を母の体で支えていた。


母は、叫んでいない。

母は、怒鳴っていない。

母の体は、静かに梁の下に横たわっている。

ボクは電話を探した。電話は、台所の薄っぺらい合板で作られた食卓の上にあったはずだが見当たらない。台所の流しの上部についている蛍光灯は消えている。ボクの足元にあった電気ヒーターからも熱は伝わってこない。

朝の光が少しずつ射し始めた。梁から生えている、お茶の葉っぱが数枚張りついている母の手には、ところどころ赤い斑点が出来ている。どこかにぶつけるか、熱湯がかかって火傷でもしたのだろう。


ボクは身動き取れないでいる。

ボクは誰かに連絡しなくてはと思う。

電話は見当たらない。

ボクは机の端に引っ掛かっているキーボードを引き寄せる。

そして、キーボードのコードの先をたどってみる。ディスプレイは引っ繰り返りもせず数十センチ離れた床の上に立っている。ボクは電源を切る前だったことを思い出す。だが、画面は黒い闇を見せている。電気は来ていない。ボクは右側を見る。そこは壁になっていて小さな窓がついていたのだが、今は天井と二階の畳が覆い隠していて見えない。ボクの後ろにあった本棚からは全ての本が飛び出して僕の足元に小山を作っている。


また少し明るくなった。明るくなって分かったことは、ボクはちょうどボク一人分の空間の中に取り残されている、ということだった。


何が起こったのかを考えようと思った。二階に何かが落ちてきたのだろうか。それも、かなり大きな重いものが。隕石とか、人工衛星とか、ミサイルとか、飛行機からの落下物とか、ダンプカーが突っ込んできたとか、隣の家が倒れかかってきたとか。倒れるとしたら、何があったのか。


隣の家もボクの家と同じような二階建ての小さな家だ。

一階は二畳くらいの台所とトイレと六畳と三畳の畳の部屋。二階は、六畳二間の畳の部屋。

ボクは一階の六畳の部屋で寝起きしている。

母は二階の部屋で寝起きしている。

隣は四人家族で姉と弟の二人の子供に両親。姉はスナックで働いていて弟は夜間高校に行っている。

父親は酒が大好きでよく大声で家族を怒鳴ったり、近くのスーパーに行っている母親を殴ったりしている。

どこにでもいる庶民だ。

隣との付き合いはないが、母は挨拶程度はしていた。




2-2

母は朝八時から始まる近くの缶詰工場で働いている。だから、缶詰には困ったことがない。でも、ボクは缶詰は見るのも嫌だ。だって、缶詰は肉も魚も同じ臭いがするからだ。最近は薄味が主流で、水煮に人気があるとか母が言っていた。

ボクはそんなへんてこな食べ物には興味がない。ボクが好きなのは、メロンの寒天寄せとニンジンジュースとヨーグルトなのだ。

でも、ボクは生まれた時からこれが好きな食べ物だったわけじゃない。母がボクを祖母の家から引き取って育てるようになるちょっと前からこれが好きになったのだ。

それまでは、ソーセージとか目玉焼きとかハンバーグとかを食べていたのだ。でも、突然そんなものが食べたくなくなって、喋るのが嫌になって、歩くのが嫌になってしまったのだ。


ボクのことで両親が言い争うことが多くなったのはそれからだ。でも、始めのうちはそれも聞こえていたけど、そのうちそれを聞くのが嫌になってしまった。嫌になってしまうと、良く聞こえなくなった。


今起こっていることは、ボクに突然起こったことに良く似ている。なぜこうなったかを考えても何の意味もないと言う意味で。 ボクは梁の隙間から母の方をもう一度見てみる。梁が母のどの辺りに乗っかっているのか、よく見ることが出来ない。

母はほとんど大の字になって倒れている。梁は、母の胸と腹の辺りにのしかかっていて、顔には当たっていないように見える。台所のテーブルに座ってお茶を口に運ぶところだったのだろう。


良く見ると、二階の角の部分の直角になった太い材木ごと母の上に乗っかっている。母は、二階全体を胸と腹で支えているのだ。梁の下から髪の毛が少し見えている。髪の毛の上には、壁土が降りかかっていて、白髪混じりの艶のない髪の毛をより一層パサパサに見せている。血は出ていないようだった。頭の回りにも、腕の辺りにもそれらしいものは見当たらなかった。


足元で何かが輝いた。見ると、ディスプレイが明るくなっている。やはりスイッチを切らないままにしてあったのだ。回線をつないでみようと、キーを叩く。モデムが回線のアクセスを伝えてくる。開いた。入ってみる。メッセージを打ち込むことにする。でも、何と書こう。母が梁の下敷きになっています。電話番号。電話は、そうだ、どこにあるのか分からない。分かっても、出ることが出来ない。住所。文通をしているわけじゃない。チャットに割り込む。ボクの母が二階の下敷きになってます。


>場所はどこ?


ボクは町名を打ち込む。


>警察に電話した?


>でんわに手がとどかない


>大丈夫?


>ボクは何ともない


>どうなってるの?


>分からない


>代わりに電話するから待って。


>遠くに煙が見えています。火事かも。


>電話が不通になってます。


>大変、高速道路がなくなってる!


>新幹線の高架が落ちてる!


>ボクはその近くに住んでます


>マンションが倒れて傾いています。


>病院が倒れてしまっています。


>家が潰れてしまって、ガス管が破裂!


ガス。母はお湯を沸かしていた。

ガスの臭いは。ボクは思いっきり息を吸い込む。

湿ったホコリの臭いのする空気だけが肺に入ってきた。

チャットは急に混み始めた。ボクの叩くスピードでは、もう会話することは出来ない。ボクは、画面を見ているだけしか出来ない。

とても大変なことが起こっている。ボクの家だけではなく、外の世界ではとても大変なことが起こっている。




2-3

母の方を見ると、辺りがボンヤリと薄紫色の光に染まっている。染まっていると思って良く見ると、回りの梁やリノリュームの床や畳は紫色にはなっていない。母の手だけが紫色になっているのだと分かった。ボクはそれが、母の体が腐り始める最初の兆候を見せているのだとすぐに気づいた。

ボクは椅子に座ったまま、動けないまま、母を見ているしかなかった。電気ヒーターがホコリ混じりの熱を伝え始めた。

>ボクの母の手が紫色になっています


ボクはキーを叩きながら、チャットのスキマに放り込んでいった。ボクのディスプレイにそれが細々になって次々に表示されていくのが見える。

SOSを発しなければいけない時なのだと思った。

どこにいるかも分からない、誰かも分からない相手にSOSを発しなければいけない時なのだと思った。だが同時に、静まり返ったこの空間に安堵するという気持ちもあった。

母は、もう叫ぶことも怒鳴ることも取り乱すこともないのだという気持ちがそう思わせたのだと思う。


母は動かないまま梁の下で二階を支えている。そして、腕をますます濃い紫色に変えていっている。

母はボクを生んだことを後悔していたのだろうか。

父は出て行く前、ボクのことを母にそっくりだ、とよく言っていた。それも、口喧嘩の中でそう言っていた。

母にボクはそっくり。どこがそっくりなのだろうとよく思っていた。母は、ボクを愛していたのだろうか。母は、ボクに毎日怒鳴ってばかりいた。いつもいつも、どうにもなりはしないことをボクに当たっていた。


母が父に会う前のことはまったく聞いたことがない。

母はボクが生まれた時から母として振る舞っていて、母以外の立場を取ったことはなかった。二人がどんな出会いをしたのかすらボクは聞いたことがない。母は、ボクに何も言わないまま、往ってしまおうとしている。

なぜ聞かなかったのだろう。母にも一人の女として生きていた時があったのだろうし、ボクの知らないところでは一人の女であった時もあるはずなのに。


ボクは、いつも母に保護者としてしか期待していなかった。だから、母もその役割を演じることだけに終始したのだろう。だから、そのことに疲れて苛立ち、ボクに対して叫んだり怒鳴ったりしていたのだろう。

母の手は動かない。こうしてじっと見つめていても何の反応も示さない。

ボクは、体を動かすことが出来て、母を梁の下から引きずり出すことが出来たら、その顔を眺めて、どんな人だったのかを聞いてあげることが出来るのにと思う。

そして、セーターを脱がし、コットンのシャツを脱がし、下着を脱がし、ブラジャーを外し、その胸に顔を埋めるだろう。

ボクは、両方の乳房を代わる代わる吸って握りしめ揉みしだいてから、その間に顔を埋めて鼻を胸骨に押しつけ、両方の乳房で頬を挟んで母の匂いを嗅ぐだろう。

それから、コットンのパンツの間から手を差し入れてショーツの下の陰毛を探り、その先に指を差し入れ、突起した部分を確認してから恥骨に沿って指を這わせてからヴァギナに差し入れ、その奥の子宮口の辺りを指でなぞっていくだろう。

ヴァギナから抜き取った指は懐かしい匂いと微かな尿の匂いが入り交じっているだろう。ボクはその指をゆっくり口にくわえて、指が白くふやけてしまってシワシワになるまでしゃぶるだろう。

それから、コットンのパンツを脱がして、ショーツを脱がしてしまうだろう。

それから、母の両脚の間を長い間見つめるだろう。

母は脚の綺麗な人だった。ボクはその形のいい太股と膝の間を持って少し両脚を開いてから、ヴァギナに口づけするだろう。

母のヴァギナは、きっと、少し舌が痺れるような酸っぱい味がするだろう。


母は素敵なセックスをしたことがあるのだろうか。

ボクを生む前に、そして、ボクを生んでから。父とのセックスは素敵だったのだろうか。父のペニスを受け入れながら、母のヴァギナはどんなふうに反応していたのだろうか。ボクは母にとって初めての妊娠だったのだろうか。

母の紫色に変色した腕は父をしっかりと抱いたことがあるのだろうか。母の細くはないその指は、父の背中に爪を立てたりしたことがあるのだろうか。




2-4

母は父のことを語ったことがない。母は、自分のことを語らなかったように、父のことも何も教えてくれなかった。

ボクが喋るのも歩くのも嫌になってしまって、家に閉じこもるようになった理由は父のせいだとボクは思っているのだけれど、父はボクのせいで家を出て行ってしまったのだと母は思っていたのではないかと思う。

父は、ボクにどんな人間であってほしかったのだろうか。

自分の人生は何のためにあると思っていたのだろうか。

ボクと母を置いて出て行ってしまうことに何の罪悪感も感じなかったのだろうか。自分の人生がそれほど大事だったのならば、父は少なくとも自分の人生には責任を持っていたのだろう。


母が出て行った父とその後出会ったことがあるかどうかは知らない。帰りが少し遅くなったり、機嫌が良かったりしたこともたまにあったから、誰かと会っていたのかも知れない。でも、それが父であったのかどうかは分からない。他の人だったのかも知れないし、ただ単にちょっとしたいいことがあっただけかも知れない。

ちょっとしたいいことが母にとって何だったのかも知らない。ボクは母を喜ばせたことがなかったから。


母の手の上に何かが落ちてきて跳ね返って横に落ちた。最初は少しだけ。そして、段々と大きな破片になってそれは落ちてきた。 それと同時に一条の強い光が射し込んできた。外はもう完全に夜が明けきっているのだと分かった。その光の筋の中でホコリが白く立ち込めているのが見える。

誰かが屋根の上にいるようだった。一人ではないようだ。屋根を破っているらしかった。瓦を退け、下貼りを剥がしているらしい。

ツルハシで下貼りに穴を開け、ノコギリで屋根の梁を切断しようとしている。


母が胸と腹で支えている二階の上に男たちが乗っかっている。

二階を胸と腹で支えて紫色に変色してしまった母の体に男たちの重みが加わっている。

男たちは、母を助けようとして母を押し潰そうとしている。

母の胸が潰れる。母の腹が破れる。

そう思って母の方を見ると、母の体は男たちの重みを感じているようには見えなかった。


ささくれだってはいるが、男一人が通れるくらいの穴が開いた。 ロープで男が下りてきた。消防団の制服を着ている。

男は母が支えている梁を蹴って台所に下り立った。

大きな声を上げている。見覚えのない男だった。近所に住んでいるのだろうが、一度も会った記憶がない。それとも、消防団の制服のせいだろうか。

男は手早くガスの元栓を閉じると、二階の天井と梁とで押し潰された母の方に視線を向けた。男が上を向いて大声で叫んでいるのが見える。


男はボクの方に向かって一声叫ぶと、ロープを引っ張って上に合図した。

男が引き上げられていく。ボクは声を上げなければと思った。

ボクがここにいることを男に教えなければと思った。男は、落ちてきた天井や母の上の梁やを蹴りながら、また屋根に向かって上っていった。


「どうだ、誰かいるか!」


「駄目だ、もう死んでる!」


「他に誰かいないか!」


「誰もいない!」


「よし、上がって来い!」


「隣から声が聞こえる!」


「分かった、引っ張ってくれ!」


ボクと母はまた二人きりになった。

ボクは目の前の畳を両手で押してみた。反対側には何か重たいものが乗っかっているらしく畳は動かなかった。ボクはそれでも両手で畳を力一杯押し続けた。




第三章



3-1

僕が、なぜあいつは女だと思ったかというと、下半身がどうもシャキッとしていないと感じたからだ。

なぜそう感じたかというと、動きがスローなせいだ。ディスプレイを見ていて本当にイライラするくらいに遅いし、数テンポ遅れて応えが返ってくるっていうところなんか本当に嫌になってしまう。

何が言いたいんだよぉ!と言いたくなる。

この世界に必要なのは反射神経なんだ。つまり、フットワークの軽さ。

これがある奴とない奴とじゃコミュニケーションの内容に十倍くらいの開きがある。途中でやめたくなってくる相手っていうのはたいてい僕の場合女なのだ。

ギャアギャアピーピーうるさい奴が、キャア、応えが返ってきた、どうしよう、何て返そう、なんてディスプレイの前でやってるのが目に浮かぶ。

入ってくるなよ!と言いたくなる。相談しながらやるんじゃねぇ!自分で考えて、自分の言いたいことを言やぁいいんだよ!

足りない頭を寄せ集めても一緒のことだ。

0を何回たしても0なんだ。それに、女はいつも女の生理を振りかざす。

僕は自分で自分のことを論理的だと思ったことはないけれど、1+1=2ということくらいは理解している。

表と裏とがあることも理解出来る。

白と黒とがあることも理解出来る。

1と0とでこの世界が出来ていることも理解出来る。

だから、僕にはとっても分かりやすい世界なのだ。


僕はこの世界で遊ぶために生まれてきたんだと思えるときがある。 なぜかというと、こんな部屋があったらいいなと思うとちゃんとあるからだ。

そして、こんなことがしたいなと思うとちゃんと出来る。勿論、こんな話がしたいな、と思えば話が出来る。

知りたいことも、買いたいものも、この世界にないものはない。 この世界に住んでいると、現実の世界がやたらかったるく見えてくる。全てのスピードが遅く感じられる。完結することのない、現実の世界が嫌になってくるのだ。僕は確率の世界が嫌なのだ。1かも知れないし、0かも知れないなんてことが平気であるのが現実の世の中だ。なぜ1は1、0は0ということが分からないのだろう。この世界ではそれはとっても基本的なことなのだ。

システムはフレキシビリティを拒否する。拒否する代わりに完結性を志向する。

システムは成長していこうとする。

その成長を助けるのは僕だ。


今日は僕の誕生日なのだ。今日は僕の二十歳の誕生日なのだ。

だから、僕は今日は少し感傷的になろうと思う。

理由はない。理由は何もないのだけれど、二十歳になったということに対して感傷的になることにしたのだ。

でも、今はとにかく寝ることにする。睡眠薬を飲んで、寝ることにする。もう僕は本当は大分前からとっても眠いのだ。デイトの途中なのだが、もう、寝ることにする。

僕はキーを叩いて回線を切った。


頭が重い。頭が曇ったまんまで、すごく重い。

目が覚めたのは、もう昼を過ぎてからだった。僕は起き上がる気にもならないまま、ベッドから天井を見つめる。

天井は石膏ボードを貼ってあって、虫食い穴のような穴が沢山あいている。その穴は何かの機能があるのかデザインなのか、何かの原型があってそれを現代の技術で再現したものなのか、僕には分からない。

そのボードは長方形で、僕の部屋の天井には、そのボードが二十枚くらい貼ってある。隣のボードを見てみると同じところに同じ虫食い穴があいているのが分かる。百八十度ずつ互い違いに回転させて貼ってあれば気づかなかったのにと思う。でも、一枚ずつ貼っていないのかも知れない。

天井全体が一枚のボードなのかも知れないと思いつくのに二十分くらいかかった。それなら、一枚一枚が同じパターンになっているのはなぜなのだろう。

きっと、パターンを刻む金型が回転しないか、ボード自体が回転しないからなのだろう。

投げやりな現代テクノロジーの産物だ。

モーローとした頭が、勝手に無意味なことを考えている。


僕は突然起き上がりたくなった。

カーテンを開けて、部屋を出てシャワーを浴びる。

狭いプラスチックのシャワールームで、シャワーのついでに歯を磨いた。

少し気分がスッキリした。

空腹を感じたので、ピッツァのケイタリングサービスでトマトとベーコンのピッツァとダイエットコークを注文した。

ダイエットコークは甘味が足りない。

トマトとベーコンのピッツァはドゥがいつも焼け過ぎていて真ん中辺りしか食べることが出来ない。


ディスプレイのメニューを見ている間に腹一杯になるのなら、それでもいいと思う。エネルギーを摂取するために人間が要するエネルギーは膨大すぎると思う。今でも原始時代なみに、ただ食べるというだけのために人間はエネルギーを費やしている。それに使うエネルギーをもっと別のことに費やせないのだろうか。と、思うのだが、何のために費やすのかということを考えるために今度は膨大なエネルギーを費やすことになるのだろうな、と思う。




3-2

とにかく、僕は何もしないでいたいのだ。以前、何をするために生まれてきたのかということを考えていて、何かをしなければならないことはないという結論に達したのだ。

それからは、何もしないで生きていこうと決めたのだ。皆が何かをしなければと思い、何かをして生きているのなら、僕は出来るだけ何もしないことにしようと決めたわけだ。

この結論を僕は気に入っている。出来るだけ動かずに、出来るだけエネルギーを使わないようにして生きているというのは、現代では稀少価値があるのではないかと思っている。

ピッツァを待っている間、回線をつないでメイルをチェックすることにした。

メイルは四通来ていた。僕の誕生日に対するお祝いのメイルばかりだった。

チャットを覗いてみると相変わらず馬鹿な話ばかりが続いている。 何でこんなつまらないことばかり話しているのだろう、と思ってよく見てみると、いつもと話の内容が少し違うことに気づいた。


>マンションの一階が潰れてしまってます。


>水道は一切使用できません。


>ガスの臭いが充満していて危険です。


>ガレキに埋もれています。助けて!


>車が高速道路から転落しています。


>新幹線の高架が道路の上に落ちてます。


>隣の建物が燃えてきた!


きっと、どこかで大きな事故が起こったのだ。

ディスプレイを眺めていると場所が分かった。事故はかなり広範囲に渡っているらしい事も分かってきた。

時間も分かってきた。

ちょうど眠くなって、レストランから抜けた時間だ。

僕たちがレストランで食事をしている間に、とんでもないことが起こっていたらしい。僕は慌ててテレビの電源を入れた。テレビの画面には、真ん中に道路が映し出されている。ヘリコプターからの映像であるらしい。

チャンネルを変えると、どのチャンネルも同じ映像が流れている。


それが何の映像なのか分かるのに十秒くらいかかったと思う。

続いて、激しく煙を上げ燃え広がる火事の現場が映し出される。 そして倒壊したビルや傾いた病院の映像。

瓦礫と化した町の一角。

盛り上がってうねる道路。

倒れてしまったクレーンの横たわる港。

砕け散った窓ガラス。

マンションに押し潰された駐車場の車。

それは、惨状であることを伝えてはいるが映像には全くトータリティもリアリティもない。どこがどうなっているのか全く理解することが出来ない。


映像はどのチャンネルも同じ場所のほとんど同じアングルから撮られている。

火事は一体どの地域で燃えていて、どの方向に向かっているのかさっぱり分からない。

震源地が特定されたようだ。震源地の国道沿いの民家の倒壊映像が映し出される。

老人が数人、自分の家なのだろう、倒壊した家屋の前を行ったり来たりしている。アナウンサーがその老人たちに向かって馬鹿な質問をしている。いつも奴らは馬鹿な質問をする。


ピッツァがやって来た。

金を渡しながら髪を金色に染めた中卒の出前持ちに、地震だなと言うと、変な顔をして「自信はないっすよ」と言って釣りと領収書を置いて帰って行った。

ダイエットコークを一口飲み、いつもどおり黒く焦げたドゥの端を持って真ん中だけをかじりながらディスプレイから目を放さなかった。そして、昨夜のことを考えた。

奴はどうしたのだろう。なぜそう思ったかと言うと、メイルの中に奴からのものがなかったからだ。デイトの途中で勝手に抜けてしまったから、怒っているに違いない。怒っているのなら、恨み言を言ってきてもいいはずなのだ。そんな勇気がないとすれば、奴はやっぱり女なのだ。男なら、きっと何か言ってくる。女だったとしても馬鹿野郎!の一言くらいはあってもおかしくはない。

そこまで考えて僕はピッツァの焦げて固くなった端を噛んで気がついた。奴はあの中にいる!と。


抜けたのと地震が起きたのとがちょうど同じ時間だったので気がつかなかったのだ。奴は僕が抜けたことに気がついていないのだろう。何のメッセージも残さなかったのだから分かるはずがない。

奴のスピードじゃ、今、チャットに割り込むのは難しい。

もし、何かメッセージを残していたとしても、とっくに後からのチャットで消されてしまっているに違いない。目の前で素晴らしいスピードで断片情報が追加されていっている。

住所はバラバラだ。広い。二府二県に渡っている。

情報コーナーにはある程度まとまった内容が掲載されている。だが、被害状況は全く分からない。まだ統計の段階には至っていない。


奴の電話番号は。

しまった聞いていない。

電話で奴と話をしたことなど一度もなかったのだ。

レストランで昨夜は朝までデイトしたというのに。

奴はどこにいるのだろう。僕は勝手なことを考える。

奴は、まだレストランで食事をしている、と。ノロノロとまだニンジンジュースとヨーグルトとメロンを食べている、と。

僕はレストランを覗きにいく。今朝からもう六時間以上経っているのは分かっていた。

でも、僕は、奴がまだあのレストランで座っていてほしいと思った。


そうだ、二人の誕生パーティの続きをしなければ。

僕は勝手にそう思っていた。

六時間以上も放っておいて、今は会いたい!と思った。レストランにはすぐに着いた。ドアに体当たりするように両手で開けて昨夜のテーブルに向かった。ウロウロしていたギャルソンにぶつかりそうになったが危うくかわして昨夜のテーブルに着いた。誰かが座っている。

いた。奴だ。僕は隣に座って回線をつなごうとした。隣には誰かが座っている。ギャルソンがやって来た。


「この席は予約のお客様の席でございます」


僕は自分のIDを打ち込む。


「その番号でのご予約は承っておりません」


>ふたりのIDは?


「お教え出来ません」


僕は奴のIDを打ち込んでみた。

座っている二人のシートは点滅しなかった。

僕はレストランを見回す。他の席は空いていた。僕はレストランを後にする。

隣の喫茶店を覗く。ウエイトレスに、来店客のIDを尋ねるが結果は同じだった。誰が来ているかなどウエイトレスに分かるわけはないのだ。仕方がないのでテーブルを回って僕は一々奴のIDを打ち込んでいった。どのテーブルも点滅しなかった。僕は喫茶店を後にしてアーケードを歩いていった。

ショッピングゾーンが視線に入ってくる。本屋、映画館、ブティック、電気屋、スーパーマーケット、ゲームセンター・・・・どこにいるのか。


もしも奴があの中にいたとしたら、停電していないとしたら、ディスプレイを見つめていたとしたら、メッセージを送ることが出来ないとしても受け取ることは出来るはずだ。僕は短い文章を作ってアップロードした。


>無事ですか?無事だったら返事ください。




3-3

馬鹿な文章だと自分で思った。無事でなかったら返事しなくてもいいというふうにも読めるし、無事でなかったら返事のしようもない。留守番電話じゃあるまいし、もっとマシなことが書けないのだろうか。無事だったら何のことか分からないじゃないか。 そう思い返して、もう一通文章を作った。

>今朝はごめんなさい。急にいなくなってびっくりしたでしょ。気になってます。メイルください。待ってます。


アップロードしながら、届くのだろうかと思った。

今まで疑ったことなど一度もなかったのに、ディスプレイからスクロールされていく文章を見つめながら初めてそう思った。


>メイルが2通届いています。


と、奴のディスプレイに表示されているはずだ。奴はゆっくりとキーを叩く。奴はきっとこう返事をよこすはずだ。


>ボクは元気です。ありがとう。


奴がゆっくりとキーを叩いている間、僕はニュースのコーナーを見てみる。死者の数は時間を追うごとに増えている。500という数字が一時間の間に1000に近づいている。

これはもっと増えるなと僕は直感した。


僕は少しイライラし始める。

返事が来ないことがその大きな理由なのだが、本当はもう一つの理由にイライラしているのだ。

そう、僕が奴を探しているということにだ。

レストランから抜けたのは確かに僕が悪かった。でも、メイルくらい入れておけばいいのに。いや、やはりメイルが入れられない状態にあるのかも知れない。だが待てよ、奴もあの時間まで起きていたわけだから寝ているのかも知れない。僕よりも寝る時間が長い奴だっているはずだ。十二時間くらい寝ないと調子が悪い奴だっているはずだ。奴はそのタイプの低血圧野郎に違いない。


そう思うと少しイライラが治まった。

いつものチャットのチャンネルに回線をつないでみた。何か言ってくるかも知れない。奴が何か言ってくるかも知れないと思ったし、言ってきてほしいと思ったからだ。

勝手に回線を切ったのは僕の方だった。

だが、今はつないでほしいと思っている自分に気がついた。


いつもとは打って変わってマジなチャットに驚かされる。

馬鹿な奴らも不真面目というわけでもないのだ。

このチャンネルでこんなシリアスな情報が流されたことがあるだろうか。僕は表彰状ものだな、と呟いた。まったく。

メディアには何のカラーもクォリティもありはしない。そこに乗せられるソフトだけがメディアのクォリティとカラーとを決定するのだ。


奴からのメッセージはなかった。そりゃそうだなと思う。

奴はいつも夜中から参加してくるのだから。

僕はまたイライラしてきた。だって、夜中まではまだ十二時間はたっぷりある。

十二時間、何をして潰そうか。

読書。まさか。映画。まだ余る。他のチャンネルのモニター。

そうだ、奴は他のチャンネルにも顔を出しているかも知れない。これはよくあることだ。別のキャラを別のチャンネルでやっている奴はいくらでもいる。現に僕がそうじゃないか。


順番にモニターすることにした。参加するのはやめた。

今は、奴を探すのが目的なのだから。

バンドAが終わった。

バンドBに入った。僕は馬鹿野郎!と言いたくなってきた。

なぜなら、もうそこでは議論が始まっていたからだ。今起こったばかりの事柄に対して、議論が起こっている。

危険回避のリスク負担についての議論、首都圏の直下型の場合の対応策、危機管理システムの欠如についての議論、最終的な死者数の予測、被害状況の金額換算予測。

それは、まだ息をしている人間を前にして、遺産相続を巡って親戚がつかみ合いの喧嘩をしている様に似ていると僕は思った。静かにしろよ!他にすることがあるだろ!と言いたかった。 だが、冷静に考えてみると僕も似たようなものだと思う。

僕は奴を探している。

そして、三時間の間全く奴と回線がつながらないことにイライラしている。

連絡が取れないことにイライラしている。

僕が無力であることにイライラしている。

僕はキーボードの端を拳で叩く。どこにいるんだ!


僕は頭の整理にとりかかる。僕は疑問を持っている。

奴が女なのではないかという。そしてそれはいつか確認しようと思っている。確認するための一つの方法としてレストランに誘った。奴は来た。男だったら来ないだろう。

しかし、奴が僕のことを女だと思っていたとしたら来るだろう。 奴が僕のことを女だと思っている可能性は?ないことはない。 僕は気まぐれだし、気分で出たり入ったりしていることは皆知っている。僕が男だという証拠は何もない。

ハンドルネームだけでは何も判断出来ない。わざと女の名前にしたり男の名前にしたり、外国人の名前にしたりする奴は幾らでもいる。


なぜ、僕は奴を探しているのか。

途中で抜けたことに負い目を感じているからなどではない。

そんなことは何も気にしていないし、今までも何度もやってきたことだ。

そうだ。遅いことなのだ。奴のキーボードの叩き方が余りにスローなせいだ。

それ以外に考えられない。なぜあんなに奴は遅いのだ。

馬鹿だから?その割りにはちゃんと考えてから応えを返してくる。 決して馬鹿ではない。馬鹿ではないのだが、そのスピードに、なぜか恥じらいを感じるのだ。ハジライ。なんて新鮮な言葉だろう。


僕はいつものチャンネルに戻った。空きを確認して回線をつないだ。 そして、ディスプレイのチャットの内容に目を通す。

依然として素晴らしいスピードでチャットが続いていく。

続いていくスキマに、他の文章に挟まれながら奇妙な文字が打ち出されてきた。


>ボクの


>母の


>手が


>紫色


>にな


>って


>います




第四章



4-1

ボクはなぜこんなメッセージを送ったのだろう、とディスプレイに表示された文字を見て思った。

左側にある畳を必死に押してみたけれど、ボクの力では余りに重くってビクともしなかった。

ボクは声を上げることも出来なかった。男たちは行ってしまった。 きっとボクの家みたいに潰れてしまった家が他にも沢山あるのだろう。隣の家からは声が聞こえると言っていた。隣の人たちはまだ生きているのだろう。

早く行って助けてあげて。そう思ったけれども、上がっていく男を見たときには畳を押して声を上げようとしていた。

ボクはそのとき、取り残されると思ったのだ。

取り残される。地下室のようになってしまった瓦礫の中でボクは一人になってしまう。ボクはそのとき、間違いなくそう思ったのだ。

母が、目の前に横たわっているにもかかわらず。

ボクは母を置いて地上に出ようとしていたのだ。

二階を母に支えさせたまま、ボクだけ外に出ようとしていたのだ。

ボクはそれを今とても悔やんでいる。

ボクは母がいなければここにはいなかった。ボクは母がついていてくれなければ、こうして生きていることは出来ない。

それなのに、ボクは自分だけ出て行こうとしていたのだ。

ボクは出て行かない。ボクは母と一緒にいる。

ボクは今しか母と一緒にいることは出来ない。ボクは母が助けられるまで母と一緒にいなければならない。

それがボクが母にしてあげられることなのだ。

それが、今まで母がボクにしてくれたことに対して報いる方法なのだ。

ボクは今そう思っている。


男が屋根の穴から出て行ってから、もう何も音がしなくなった。 もう誰も近づいて来ない。

何の気配も感じられなくなった。

そして喉がとても渇いてきた。

とても喉が渇いてきたけれど水道のある流しには行けなかった。流しに行くには、畳を退けてしまわなければならない。

それに、二階の床材の破片も退けてしまわなければならない。

広く空けてしまわなければ通れない。

ボクは隙間から流しの方を見る。

小さな、石で出来た流しが見えている。

水道の蛇口が見える。

母がお湯を沸かすために使ったのが最後だ。


ボクはその蛇口をしばらく見つめていた。見つめていると蛇口が反応した。

蛇口の部分が下にゆっくりと垂れ下がってきた。蛇口がゆっくりと膨らみ始めた。膨らんだ部分が蛇口の一か所に集まりそこでまた膨らみ始め、やがてたまらずに滴り落ちた。

アッ、とボクはその瞬間思った。そして気がついた。

長い間トイレに行っていなかったことに。

水道の蛇口の一滴が、ボクの下半身に刺激を与えたようだった。そしてそれは一滴でおさまることなくボクの両脚の間を温かくするまで続いた。


ボクは右手をそこに突っ込んで、指についたそれを舐めた。

ちょっとしょっぱくて血の味も少ししたけれど、不味くはなかった。 ボクは、次は手で受けて飲もうと思った。

下着や椅子にしみ込ませてしまったのは失敗だったと思った。

座りっぱなしの状態でいたために尻が痛くなってきた。

そして、ボクは深刻な問題に直面していることに気づいた。垂れ流しでは出来ない、もう一つの便意についての。


ボクは考えないことにした。身動きのとれないこの状態ではどうしようもない。

どんなに頑張ってもトイレに行くことは出来ない。

ボクの回りにある壁や畳や板切れや柱や梁やはがっちりとボクを取り囲んで閉じ込めている。

母は身動き一つしない。

母はもうボクに手を貸すことは出来ない。

母はボクの方を見ているのだろうか。

それすらも窺うことは出来ない。

ただ、明るくなった外の光が屋根に開けられた穴から射し込んでいて、ますます濃い紫色になってきた母の手についていたお茶の葉っぱを乾燥させて、小さく干からびさせているのが見える。




4-2

>ボクの母の手が紫色になっています

キーを叩くと、指に刺さっていた蛍光灯の破片がチクチクして、チクチクした辺りから血が丸い小さな点になって吹き出してきた。ボクはキーボードを血で汚さないようにチクチクしない指で打たなければと思った。

キーボードはボクがキーを打つ度にギシギシと音を立てた。ボクは両手でキーボードを持ち上げてひっくり返し、間に詰まっていた細かい砂や土を机の上にぶちまけた。ぶちまけて机の上から払おうと思ったがやめにした。

また蛍光灯の破片が刺さるのが嫌だったからだ。


>どうしたの?大丈夫?


そう、ディスプレイに表示された。

ハンドルネームは、<彼>だ。<彼>がキーボードの前に座っている。

ボクは、とっても感動した。ボクはキーボードを引き寄せた。

ボクは話さなければと思った。指がチクチクすることなんかどうでもいいと思った。それでなくともボクはキーボードを叩くのがとっても遅くって、痛くない指だけでやっていたのではとても話なんか出来ないと思ったからだ。


>地震があったみたい


>分かってる。ケガはないの?


>だいじょうぶみたい


>何処なのそこは。電話番号、教えて


>でんわはとどかない。とじこめられてる


>住所は?お母さんは?誰か近くにいるの?


>母がにかいの下じきになってる


>電話番号と住所教えて!


ボクは、会いたくないと思った。

ボクは、<彼>に会いたくない。

現実のボクを知られたくない。


>みずがほしい


>水、すぐに持っていくから


すぐに応えが返ってくる。でも、来てほしくなんかない。水だけがほしい。


>みずがのみたい


>すぐに送るから住所教えて


住所は教えたくない。ここに<彼>がやって来るから。


>たべものがほしい


>すぐに持っていくから、名前教えて!


名前は言いたくない。だって、ボクが誰だか分かってしまうから。


>きみのなまえ、おしえて


>僕の名前なんかどうでもいい!


>ボクはだいじょうぶ。たすかるとおもう


>なぜ、そんなことを言うの?


>あいたくない


>僕は君に会いたい!


と打って、僕はビックリした。マジに。

どうしてこんなことが言えるんだろう、と思った。どこにいるのか誰なのかも分からない相手に向かって、会いたい!なんてどうかしている。

でも、奴の方がどうかしている。こんな緊急事態にあって、電話番号も住所も名前も言おうとしないなんて。会いたくないとはどういうことなんだ。何もそんな意味で言ったわけじゃない。 水だって食べ物だって送るにしても、持っていくにしても必要な事柄なんだ。

どうやら、家は潰れてしまっているようだ。母親は動けないようだ。父親はいないのだろうか。仕事に行っているのだろうか。全く分からない。何も分からない。


テレビに映し出された映像は、映画の一シーンか、よその国の出来事のように見える。ヘリコプターからの映像は、何も伝えてこない。

火事が燃え広がっている。高速道路が横倒しになっている。

新幹線の高架が落下している。それだけのことだ。

それだけしか伝えてこない。

そこにいる人々の姿がない。そこに暮らしている人々はどうなってしまったのかが何も伝わってこない。行かなければ、と突然僕は思った。


そう思って、僕は自分自身をちょっと見直した。

そして、そんなことを思うのはなぜだろう、と思った。

奴とは、昨日から今朝にかけて初めて話をした。そして、なぜかデイトした。それだけのことなのに。

だが、それだけのことなのに僕は奴のことを知っている。

少なくとも、奴の好物は。

ニンジンジュースとメロンの寒天寄せとヨーグルトが奴の好物なのだ。僕は奴の好物に興味を持っているのだ。きっとそうだ。こんなものが好物の奴なんて、そうそういるもんじゃない。




4-3

>僕は君に会いたい!

という文字にボクは見入ってしまった。

なぜってボクはそんなことを今まで言われたことがなかったからだ。いや、まだ小さかった頃、ボクが普通に歩けていた頃、ちゃんと口を利けていた頃には言われたことがあったかも知れない。 でも、突然こうなってしまってから、ボクが家から出なくなってしまってからは誰からも言われたことはない。


母は、父が出て行ってしまってからは、愚痴しか言ったことがないし、時々行く病院の先生も、ニコニコしているのだけれど、君には会いたくないもんだという目をしていることはボクにはお見通しなんだ。

誰もボクには会いたがらない。だから、ボクも誰にも会いたくなんかないんだ。ボクのことを見ても、誰も幸せにならないし、ボクだって面白くもなんともない。

ボクは友だちなんかほしくない。


>ボクはともだちなんかいらない!


>誕生パーティは終わってない!


僕は何とか奴の気を引こうとしている。

どうだ、こいつには引っかかるだろう。そう思って僕はキーを叩いた。

遅い。遅い遅いレスポンス。

他の二人のチャットはもう、十行目までいっている。数字が並び始めた。

電話番号だ。僕は急いでメモに取る。

名前が打ち出された。男の名前だった。それも、やけに男らしい名前だ。

僕はなぜか、咄嗟にニューハーフみたいな男らしい名前だな、と思った。

住所は。住所だよ。遅いんだよ、お前は!


僕はイライラしてくる。

自分の住んでいる住所をすぐに書けない奴がいるのかよ!

僕はしばらく待った。急かさない方がいいだろうと思ったのだ。そして、待てよ、と思った。電話番号があれば、住所は分かる。電話局では教えないことになっているが、こんな緊急時には教えてくれるかも知れない。

僕は奴の応えを待っている間に電話局に問い合わせてみた。

駄目だった。回線がパニックになっている。

電話帳は、と思って、やっぱり行かなければと思った。


>住所、教えて!パーティしようよ!


住所は教えたくない。もし住所を教えたら<彼>がやって来るから。

ボクは<彼>には会いたくない。 会うのが怖い。ボクは<彼>が思っているような人間じゃない。

<彼>はボクの事をどんなふうに思っているのだろうか。

<彼>はどんな人間なのだろう。

<彼>はボクのことを何も知らない。

何も知らないくせに、なんで会いたいとか、住所とか知りたがったりするんだろう。


住所はいつまでも打ち出されなかった。電話番号でどの県かは分かった。名前も分かった。その地方の警察に電話してみた。

警察にも電話はつながらなかった。

消防署にも役所にも電話したがつながらなかった。

何てことだろう。この地方への回線はパニック状態になっている。いつまで待っても何も応えが返ってこないにしても、奴と僕の回線は生きている。僕と奴とはキーボードを前にしてつながっている。

この回線だけで奴とつながっているのだ。


>そっちに行くよ。


>こないで


>行くしかない。すぐに行く。


>あいたくない


>ニンジンジュース持っていくよ。


>いらない


>ヨーグルト持っていくよ。


>いらない


>すぐに行くから、待ってて。切るよ。


>きらずにはなして


>どうしたんだ。大丈夫?


>くるしい


>待ってて。すぐに行くから。


<彼>がやって来る。ボクは、会いたくない。

苦しい。息苦しい。体全体が熱い。腹部が苦しい。

空気が薄くなっているわけでもないのに、ボクは胸で息をしている。

気温が高くもないのにボクは全身に汗をかいている。

椅子の背もたれも湿っている。

臀部は湿ったままで気持ちが悪い。

痒みがある。

座板の部分と臀部の間の、一旦しみ込んだ水分が体温で蒸発し始めている。

腹部の痛みはいつものものだ。

嫌だ。<彼>には会いたくない。

母さん、助けて!

なぜなの、なぜなの、なぜこんなことになったの!




4-4

ボクは、母の方を見る。何も変わっていない。母は今朝とった姿勢のまま動こうとしないでじっとしている。

忍耐強い死体。

ボクはもう嫌だ。こんなところに取り残されるのは嫌だ。

ボクは叫ばなければと思う。叫んで助けを呼ばなければと思う。 ボクは口を開けて声を出そうとする。

声帯に空気を送り込もうとする。ううっ、ううっという音にしかならない。これでは外に聞こえない。

<彼>が来る前にここから出なければ。

ボクはここにいます!ボクはここに閉じ込められています!

ボクはそう叫ばなければいけない。

ボクは大声で助けを呼ばなければいけない。

呼んでも誰にも文句は言われない。

誰にも迷惑がられることはない。

もう、何も気にすることなんかないのだ。

叫ばせて!声よ出て!

ボクは肺から空気を鼻ではなく声帯に送り込む。

ああっっ、ああっ、という音に変わっただけで声にならない。


背中が痛い。首を斜め右下に向けて、頭を梁からよけながら、屈み込んでキーボードを叩き続けたせいだ。下腹部が痛い。喉が塵のせいで痛む。ボクは頭を梁の下から抜き取って背もたれにもたれかかる。立ち上がらなければ、と思う。ここから出るのだ。こんなところにいてたまるものか!

ボクは両手を肘掛けに当てて思いっきり体を浮かそうとしてみる。 ボクの細い両手はボクを持ち上げることが出来ない。

ボクの両手は、ブルブルと震えて両脇に落ちた。

早くここから出なければ!


僕は回線を切って辺りを見回す。時間は。

まっすぐ行けば夕方には着く。

まず電車に乗って駅まで行って近くの公衆電話で名前を調べて電話番号と住所を確認する。住所はすぐに分かるだろう。

住所が分かれば、タクシーで行けばいい。

僕は身支度を始める。

シャツにセーターにウールのジャケット。ジーンズにスニーカーでいいだろう。

近くのコンビニで水と食料、何がいいかな。パンとおにぎりか。そうだ、ヨーグルトとメロンだな。

缶ジュースにニンジンジュースがあったかも知れない。デイパックも要るだろうな。


ボクの両手はまだ震えている。ボクの両手には筋肉がなさ過ぎる。ボクの両手は、ボクの体重をほんの少しでも支えることが出来ない。ボクは背もたれに体重を乗せて、両手は垂らしたまま伸びをした。

伸びをしたとき、温かい固まりがボクの臀部の後部に排出されるのを感じた。来ないで!


地下鉄駅前のコンビニにはニンジンジュースはなかった。奴の好物だから、何とか手に入れたかったのだが、仕方がない。

僕はパンとおにぎりとヨーグルト、僕の分としてオレンジジュース、それに水のペットボトルを三本買った。デイパックはそれだけでも十分重たくなった。


微かに消化物の臭いがしてくる。ボクは悔しかった。なぜこんなことになるんだ。どうしてこんなことにならなければいけないの?ボクは机の上のキーボードの端を震える握り拳で叩いた。


>来ないで!


ボクは相手のいなくなったディスプレイに、そう打ち込んだ。




第五章



5-1

駅前はとんでもない混雑の様相を呈していた。そして、僕は大きな勘違いをしていたことにやっと気づいた。

電車は全て止まっている。

新幹線、在来線、バス、そして、二本の私鉄までもが全く運転されていなかった。僕の住んでいる町は普段と何も変わらなかったし、地下鉄が動いていたので、当然電車は動いていると思っていたのだ。

僕の計画は最初から頓挫してしまった。

僕は、近くの電話ボックスの電話帳で名前と住所を確認した。

場所はだいたい想像出来た。車なら一時間もかからない距離だと分かった。

僕はタクシーで行くことにした。

だが、タクシーはどの車両も人が乗っていた。

僕は最短距離を考えて、国道を歩き始める。そのうち空車が通れば拾えばいい。そう思って、振り返りながら歩く。

すぐに踏切に出た。電車は通っていないのだから踏切の左右を見る必要はないのだが、そうした。

右を見て、左を見て驚いた。

線路を人が歩いている。こちらから向こうへ向けて何百人という人が歩いている。背中に僕のようにナップサックを背負って。 向こうからもやって来るのが見える。僕は目をしばたたいてもう一度良く見る。


こちらから向こうへ向かっている人々はスーツ姿のサラリーマンらしい人々の群れ。向こうからやって来るのは、以前、テレビのニュースで見たことのある被災者の群れ。子供の手を引いた母親が着の身着のままで歩いて来る。電車が走らなければ、人々は歩き始めるのだ。

目的地に行くのに何も交通手段など考えることはない。

自分の脚で歩けばいいのだ。

その人たちはそう言っているように思える。


反対側の車線を空車がやって来るのが見えた。

僕は走ってその車の前で手を上げる。

車は停まったが、僕の行き先を聞いて運転手は振り返って、そこまでは無理だと言う。

道中に瓦礫が散らばっていて走れない、と言うのだ。僕は行けるところまででいいからと無理矢理乗り込んだ。

運転手はしぶしぶ車を踏切の上でターンさせると走り始めた。

今までそっちの方向に行ってきたところだと言う。

様子を聞くと、まるで戦場だと言う。


道は比較的空いていた。そして、反対車線はガラガラに空いていた。

反対車線を走ればいいのにと僕は思った。こんなときに法律を守っても仕方ないのにと思った。しばらく走っても何事もない風景が続いている。

橋を渡る。風景が変わり始める。風景の全体性が失われ始める。 国道沿いの建物の塀が崩れて歩道を塞いでしまっている。

大きなビルが腰砕け状態で倒れかかっている。

救急車のサイレン、パトカーのサイレン、そして消防車のサイレンが交錯し始める。まだ十キロも走ってはいないのに。

運転手がこの先までだと僕に告げる。

もっと走ってくれるように僕は頼む。

電話番号によると、隣の町のはずだ。運転手はその先は渋滞で走れないのだと言う。国道沿いに火事が起こっているのだと言う。そんなことはニュースになっていなかった。だが、ニュースになる前の現実は、至るところに転がっていた。

奴が自分の家の中に閉じ込められていることだってニュースになっていない。普通なら大ニュースのはずなのに、今は爪で引っ掻いた程度の重要さでしかない。


運転手は僕に降りるよう要求する。僕は奴の町の名前を告げる。運転手はどっち道そこまでは行けないと言う。火事で国道は通行止めになっているのだと言う。僕は仕方ないので一番近くの電車の駅まで行ってくれるように頼む。線路を歩いて行くしかないと思ったからだ。

僕の勘ではその駅から奴のいる場所までは十数キロはある。

一時間に五キロ歩いたとして三時間で着く。大したことはない。


駅前のビルが倒壊しているのが見える。ビルは駅前のコンコースを塞ぐ形で倒れ込んでいる。ビルの回りには人だかりが出来ていて消防団や警察が救助活動をしている。

僕はそれを横目に見て、改札口を入る。改札口は無人で開いたままになっている。数人の男女が僕と一緒に入っていく。

ホームに上がり、ホームから飛び下りて線路に立った。

前には人の列が出来ていた。

右に左に揺れながら人の列は進んでいく。危険ですから線路を歩かないで下さい!とホームではアナウンスが流れているが誰も耳を貸そうとはしない。何が危険なのだろう。電車は走っていないというのに。

手に白いビニール袋を下げたおばさんや、ザックを背負ったおじさんが次々にホームから線路に飛び下りる。

無法地帯。僕は嬉しくなった。

僕は飛び下りる時によろけたおばさんに手を貸してあげる。その見もしたことのないおばさんは僕に向かってニッコリした。

僕は自分に感動した。

人を助けるってなんて素敵なことなんだ!と思った。


僕たちはしばらく一緒に線路を歩いていった。

線路は思ったよりも歩きにくくて、枕木と枕木の幅が歩幅よりも少し狭いことに気がつく。枕木と枕木の間には敷石が敷いてあるのだが、枕木を踏んで歩いていると、何歩目かには敷石にどちらかの足を踏み入れてしまう。

敷石はごろごろした小石で、中には鋭いエッジをしたものもあって僕の足の指や甲に当たって痛い。敷石は、いつもアスファルトの道を歩いている僕にはバランスを崩しやすくて厄介な道だった。

僕は、いつの間にかおばさんたちに置いていかれてしまった。


一時間ほど歩くと、喉が渇いてきた。僕は自分のために買っておいたオレンジジュースを飲んで一息入れることにした。線路の端に腰を下ろして脚を投げ出した。

とても足の裏が痛い。デイパックを背負っていた背中の汗をかいた部分に風が当たって気持ちがいい。

久しぶりの楽しいピクニックみたいだな、と僕は思った。




5-2

ボクは出来るだけ楽な姿勢を探してみた。

骨盤の部分は痺れ始めていた。もう、昨夜から十数時間座りっぱなしだった。座ることには慣れていても、動けないことがとても辛かった。

体中に汗が滲んでいた。

首筋から背中にかけての筋肉が突っ張り始めた。

口が渇いて、喉が渇いて、ボクの呼吸音だけが聞こえる。

頭の芯が疼いている。

右手の甲で顔を拭うと、土ボコリと汗とが一緒になった黒い汁が付着する。

ボクは、それをパジャマの胸の辺りで拭って思う。ひどい顔をしてるんだろうな、と。

下腹部が疼いた。ボクは嫌だと思った。

また、温かいものが下着に排出された。ボクは咄嗟にそこに手をやった。

とても喉が渇いていたからだ。下着から陰毛の上を通り過ぎて両脚の間に手をやり、それを指先で触ってみた。その指は蛍光灯の破片が刺さっている指だったので、指と指を当てた部分が両方チクリとした。そしてその感触に失望した。

僕はその指についたものを下着になすりつけた。顔から血の気が引いていくのが分かった。

額に汗が吹き出してきて、頬が冷たくなっていくのが分かる。


さて、行くか。と一声かけて僕は起き上がった。

少し休んだつもりだったのに、ジュースを飲みながら線路を歩いていく人たちを見ている間に、大分時間が経ってしまったようだった。背中に当たる風が、冷たくなっている。まだ三分の一しか来ていないのだ。

僕はジュースの空き缶をデイパックにしまおうとして思い直し線路脇の草むらに放り投げた。

無法地帯。

そう、これでなきゃ似合わない。

僕は勝手にその場の価値観を決めた。


そこからしばらく歩いたところで線路は歩けなくなった。

橋桁が落ちてしまって線路が空中に浮かんでいる。僕たちはそこを迂回しまた線路に戻って行進した。

誰も口を利かなくなった。黙々と歩いていく群れの中の一人に僕はなって歩いた。

僕は腰が痛くなってきた。長く歩くと腰が痛くなるということに初めて気づいた。それに、足の裏がジンジンしてきて、歩くたびに脳に響く。膝もだるくなって、歩くと脚が左右に揺れているのが分かる。僕はまた、腰を下ろす。そして、ペットボトルの水を飲む。計算違い。


僕はもう二時間以上歩いている。そして、奴のために持ってきたペットボトルを二本飲み、パンを食べた。

背中は軽くなったが、責任は重くなった。

僕は何のためにデイパックの中身を運んでいるのか自問してしまう。持っていく前に全部なくなったら、また、振り出しに戻ることになる。

そして、戻って同じだけ買い込んで歩き始める。

そしてまた、全部空になってしまう。

また、同じものを買いに戻る。

また歩き始める。そしてまた、空にしてしまう。

僕をキャラにした、そんなゲームのような映像が頭に浮かぶ。


座り込んで目の前の線路を眺める。

せ~んろははつづく~よ、ど~こまでも~、という歌が口をついて出た。何を歌っているのだろう、僕は。それにしても、何という距離なんだ。

僕は肩で息をしているのに気づく。歩くということが、とても大変なことに思えてくる。

よそうかと、ふと思う。

何をやっているのだろうと思う。

ペットボトル一本とおにぎりとヨーグルト。僕はこれを奴に届けようとしている。三時間以上かかって。奴の近くのコンビニは何ともなくって、こんなものは幾らでも売っているんじゃないか。僕が到着すると、奴はメロンの寒天寄せなんて食っていて、やぁ、お疲れさん!なんて言ってくるんじゃないだろうか。そんな気にさせられる。


遠くに煙が見える。大量の黒煙が空に舞い上がっている。明るさが一気に二段階ほど落ちて暗くなった。煙のせいではない。夕方が近いのだ。胸が押さえつけられるような、小さな不安がよぎった。

どうやって帰るつもりだ。まだ、目的地に着いてもいないのに帰り方が気になり始める。振り向いて、歩いてきた方を見る。誰も歩いていない。

そんな。僕が一番最後を歩いている。

僕の前にはさっき僕を追い越して行ったおばさんの二人連れが遠ざかっていくのが見える。僕はやおら立ち上がる。

行かなければと思う。

この線路の向こうに奴がいるのだ。

奴に会わなければ。


明るいうちに当然到着出来るものと思っていたのに、空は夕焼けに変わっていた。煙はその夕焼けの中に幾条も立ちのぼり、風向きの変化で煤煙とともにゴムの焼け焦げた臭いを運んでくる。 近い。奴の家が近い。

僕は奴の家に一番近い電車の駅の構内にたどり着いた。あれからは、ペットボトルの水は飲んでいない。僕はホームの端の階段から駅舎に入った。駅舎を抜けると、横のトイレの入口の水道が目に入った。


僕は小走りで水道に駆け寄って栓をひねった。

水は出なかった。僕はわいてきた生唾を飲み込んで、駅舎の前に掲示してある近隣の絵地図を見る。

電話帳で確認した住所と名前を照合してみる。

国道を挟んで、北側は大きな敷地の家があり、南側は北側の一軒の敷地に三十軒が建っているような対照的な町だ。奴の番地を探す。

あった。名前までは確認出来ないが奴の言った姓がそこに載っている。

同じような長方形の建物が十軒ほど並んでいる。安物の建て売りといった風情だ。


電話は、と思って見るとすぐ近くに公衆電話のボックスがあって数人が並んでいる。誰もが寝ていた時の格好に近い。僕は近づいていって奴のことを知っている人がいないか聞いてみた。奴のことは誰も知らなかったが、奴の家の辺りは「キレイに倒壊している」ということだった。電話は通じなかった。呼び出し音は聞こえているのに、奴は出ようとしない。どこにあるか分からないと言っていたのを思い出した。

探せよ、電話を!僕は呼び出し音を耳元で聞きながらそう思った。




5-3

その音に、ボクはビクッとして身を起こした。その音はとても大きな音に聞こえた。その音は、横たわっている母の耳元の辺りで鳴っていた。

ボクは机にうつ伏せになっているボクを発見する。

気を失っていたわけではなかった。梁の下に頭を突っ込んでキーボードを抱き抱えるようにしてじっとしていた。

それは決して楽な姿勢ではなかったけれど、尻の痛さと不快感から少しでも逃れようとして取っていた姿勢だった。

<彼>だ、と思った。

<彼>が来ている。もう、すぐそこまで来ている。

駅前の公衆電話からだろうか。駅からここまでは十分もかからない。 どうしよう。ボクはパジャマの端で顔を拭う。

嫌だ。嫌だ。嫌だ。会いたくない。

ボクは両手で机を叩いた。

そのときだった。

また、下から突き上げるような響きが伝わってきた。一度、二度、ボクは椅子ごと持ち上げられて、次に横揺れの中に放り込まれた。ボクは咄嗟に梁の下に頭を突っ込んで、さっきまでしていた姿勢を取った。

何かが首に刺さった。机が左右に揺すぶられている。ボクはじっと耐えるしかなかった。


屋根が崩れ落ちてきた。

屋根瓦と土と材木片が降ってきた。

母とボクの机とで支えられている二階の梁の上に屋根自体が崩れ落ちてきたようだった。揺れは一旦おさまると、今度は軽い横揺れを送ってきた。

しばらくして音がしなくなった。ボクの背中に土の固まりや屋根瓦の破片が降りかかっている。

二階の梁がボクの頭を押し潰している。

首に刺さっているのは、その梁の折れて尖った先端のようだ。降ってきた屋根のせいで、ボクの部屋と台所を仕切っていた畳が倒れ込んで、視界が効くようになった。赤い空が見えた。


僕は電話ボックスを出ると真っ直ぐ奴の家に向かった。道順は難しくなかった。公園の近くだ。歩いて五分もすると、道路の脇に人の列が出来ていた。思い思いの容器を持って人々が壊れた水道管から溢れる水を汲もうとしているのだった。皆整然と並んで順番を待っていた。

その整然さが不思議だった。

僕は湧きだす水道の水がアスファルトの上に作る黒い流れに両手を浸した。アスファルトは少し温かかった。僕は湿った両手を顔に当て、口に流れ込んでくる、汗と一緒になったしょっぱい水を啜った。


そのとき、初めて体験する揺れが僕を襲った。

回りで悲鳴が上がった。僕はアスファルトの上に身を伏せた。

体ごと持ち上げられ左右に振り回される。

頭がカーッとなった。

怒りではない、恐れではない、おののき。

地面全体が揺れることの不条理。

人間の存在の危うさ。

やばいぜ、こんなところにいちゃ。僕はそう呟いている。と同時に、行かなきゃなこれは、と思い直す。奴の方がもっとやばいんだ。


起き上がって歩き始めると、まだ微かな揺れが続いていることが分かる。クラッと視界が揺れる。公園の横まで来ると、廃墟があった。

出来立ての廃墟。まだ煙が立ちのぼっている。

消火直後の消し炭のような臭いと鉄の焼けた臭いが鼻を突く。しかも、まだ熱いくらいに熱を放っている。そこには何があったのだろうか。もし、以前そこに建っていた建物を知っていたとしても思い出せないのではないだろうか。

空襲、という知りもしない言葉が映像を伴って脳裏に浮かぶ。

ここまで歩いてくる間に、誰かが口にしていた言葉が耳に残っていたのかも知れない。この焼け跡がその言葉を思い出させたのかも知れない。


その焼け跡の回りには黄色いプラスチックのロープが張り巡らされ、前には警察官が立っている。僕が臭いと熱にむせながら立ち止まって見ていると、早く行って下さい、と言う。僕は今来たところで、これからあそこへ行くのです、と公園の方を指さして言うと、二次災害が危険ですから立ち入らないで下さい、と言う。

一次災害はもう、終わったのだろうか。

まだ、二次災害のことを言うのは早過ぎる。

僕は、そこに僕の友達がいるのだと言うと、そこはもう確認済みで誰も残っていないと言う。助けるべき人は助け、収容すべき人は収容したと言うのだ。僕は、ああそうですか、と言ってその場を離れた。


僕は、闇に包まれ始めた公園を突っ切って反対側に出た。

僕は全くこの警察官の言うことを信じてはいなかった。

僕は奴が生きていることを確認している。

どうして平気であんなことを言えるのか不思議な奴らだ。

嘘つきのくせに、その非を責められることはない。

無責任な嘘つき。僕も嘘つきだが、責任感のある嘘つき。




5-4

公園の水銀灯が押し潰されてしまった安物の建て売りの跡を照らし出している。僕は駅前の絵地図を思い浮かべる。公園の端から四軒目が奴の家だ。

どの家の屋根にも色々な大きさの穴が穿たれていて、そこから幾つかの人命が運び出されたことが分かる。

なぜ、奴のところには誰も助けに来なかったのか。

どこにいるんだ。僕は見当をつけて瓦礫の山に這い上がった。

散らばる洋服、洗濯機、箪笥、玩具、洗面器、靴、ベッド・・・・色々な生活用品が瓦礫の中に埋もれ、ミックスされ、置き去りにされ、小山と化して静寂の中に沈んでいる。

屋根が崩れ落ち、一階部分は消失してしまっている建物があった。

奴はこの中にいる。

僕はそう直感した。

僕は、心臓の高鳴る音を聞く。

屋根の上に上り、V字型に陥没した部分に滑り降り、屋根瓦を退けにかかる。爪に土が入り込むのを感じる。

瓦を足で割って放り投げる。

瓦の下の土を手で掘り起こし穴を開ける。土煙が水銀灯の光の中に舞い上がる。小さく開いた穴を両手で広げる。覗くと闇が広がっているのが見える。瓦の下のベニヤで手が切れてしまったようだ。僕は構わずに力まかせにベニヤを引き剥がす。光を探す。奴の光。ディスプレイの光だ。奴はディスプレイを点けっぱなしにしているはずだ。声を掛けてみる。叫んでみる。


「誕生パーティ、するんだろ!」


「今日は僕たちの誕生日なんだろ!」


「水、持って来たぞ!」


「ヨーグルトも持って来たぞ!」


応答はなかった。僕は広げた穴から中に入る。天井の梁が落ち、折れてしまっている。畳が柱が瓦がガラスが土屑が食器が散乱している。顔を上げると、瓦礫の向こうに微かな輝きがあった。斜め下からのその微かな光の中、キーボードが机の端に引っかかったまま瓦礫に埋もれているのが見えた。僕はそっちに向かって一歩踏み出した。


ディスプレイの画面一杯に打ち出された、


>来ないで!


という文字がスクロールされていくのが見えた。

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