ワイルド・ワイフ
序章
序ー1
高速道路に入って料金所で金を払う頃には雨が降り始めた。俺は運転には自信があったし、何しろクアトロに乗っているのだという安心感があったのだと思う。早く行かなければ、早く逃げなければという二つの意識が交錯する中で、右足はアクセルペダルを必要以上に踏んでいたに違いない。
雨足がにわかに速まり、ワイパーのスピードを最速にしても、視界を確保するのが困難になって来た。回りの車のスピードが落ちた。俺はそれを横目にアクセルを踏み込んだ。ちぎってやろうと思ったからだ。何しろフルタイム四駆なのだ。雨の中でも晴れの日と同じ挙動を示すのがこの車の売りなのだ。長い直線の間に俺は全ての並走していた車を抜き去った。バックミラーで見ると、雨にかすんで彼方に小さなヘッドライトの群れが追いかけて来るのが見えた。
そこまでだった。「前方急カーブ注意」の標識が視界に入ったのとカーブが始まったのは同時だった。急激に道は狭まり、三車線あった道が二車線に絞り込まれ、九〇度以上のカーブにつけられた防護壁が行く手を阻むかのように立ちふさがった。
「ヤバイな」
と思うのと後輪が滑り始めるのとは同時だった。右にテイルを振り、車は左の防護壁めがけて進んで行く。俺は右にハンドルを切る。通常ならばこれで車は右を向くのだが、そのまま進んで行く。俺は、四速から三速にシフトダウンした。遅すぎた。この操作はカーブに入る前にしなければならないのだ。
俺は、ハンドルを左に切った。今度は車は左にテイルを振った。ハンドル操作が急激すぎたのだ。俺はアクセルを吹かした。レスポンスが悪かった。三速ではギヤが小さすぎるのだ。二速で踏み込めば、それなりのレスポンスは期待出来たはずなのだが、全てが遅かった。俺はもう一度ハンドルを右に切った。車はテイルを右に振った。
左カーブを描きながら、道はまだ出口にさしかかってはいない。俺はもう一度ハンドルを左に切った。そのとき、突然タイヤが道路を噛んだ。左のフロントフェンダーがガードレールに接触した。その弾みで今度は左のリアがガードレールにぶつかった。次に起こったことは、多分それは物理の法則にかなっているのだろうが、俺の経験したことのない車の挙動だった。目の前の側壁が右に急激に流れ、一瞬フワッと車体が浮いてしまったような感触の中、一八〇度回転すると左のリアからガードレールに激突した。なぜ激突したと思ったかというと、その瞬間リアのガラスが粉々の礫になって俺の後頭部に突き刺さって来たからだ。
シートベルトは俺の首に食い込んでいる。タイヤが焼けた臭いが車内に充満し、ハンドルを握ったまま目を上げると、豪雨の中でも、俺の車が描いた軌跡が白い煙を上げながらアスファルトにへばりついているのが見えた。土砂降りの雨の滴が両手を濡らし、フロントガラスも砕け散ってボンネットの上でキラキラ輝いているのが見える。
車が止まったのはちょうどカーブの出口の辺りで、すぐ目の前にはカーブの曲がり角があり、それが右方向へと吸い込まれている。
「ヤバイな」
俺は、朦朧とした意識の中でそう思った。俺の車は二車線の走行車線のセンターラインを跨いで斜め右にフロントを向けて停車している。あのカーブを抜けて出てきた車、俺がついさっき追い抜いて来た車たちが、俺の車を視界に捉えてから俺の車までの距離は五〇メートルほどだ。時速六〇キロで抜けて来たとすれば、三秒足らず、時速四〇キロだとしても五秒足らずで俺の車に追突してくるはずだ。
さっき追い越してから何分経っているだろう。直線でちぎったといっても、距離にして二キロメートルもあるかどうか。二、三分もすればやって来るはずだ。
俺はキーを回した。エンジンはかからない。指先に力を込めてキーを回そうとするのだが、どうしてもかからない。ガラスの破片がどうやら指に食い込んでいるらしくてチカチカする。俺はハンドルで体を支え、前方を注視しながらキー戻しては回し続けた。
そのとき、前方のカーブの薄暗がりの中から、走って来る物が目に飛び込んで来た。それは、全裸の女だった。口から血を流し、髪を振り乱し、左足を引きずりながら、女が裸足で走ってこっちに向かって来る・・・。それは、ついさっき車に乗るために振り切って来た俺の妻だった。
第一章
1-1
俺と妻が出会ったのは、ちょうど今から十年前のことだ。俺が勤めていた広告プロダクションの経理をやっていたおばさんが結婚することになって、俺も社員の一員として結婚披露パーティに列席していた。そのとき俺の向かいに座っていたのが妻で、そのおばさんのパーティ用衣装のスタイリングをするために来ていたのだ。
俺は、そのときまだ広告業界では駆け出しだったが、妻はすでに業界では名の通ったスタイリストとして活躍していた。なぜ妻が俺に興味を持ったのかという理由がふるっていて、そのパーティのデザートに出て来たスイカの食い方が気に入ったのだと言う。
パーティがはねたあと、俺たち会社の仲間と新郎新婦の二人はバーへと繰り出したのだが、彼女も一緒について来た。バーで妻は俺に声をかけて来て、俺は誘われるままディスコに一緒に行った。
そのディスコは当時はとてもナウいディスコで、時代の先端を走っていると自負しているような連中の溜まり場になっていた。俺はそのときまでそのディスコに行ったことはなかったし、知りもしなかった。
外も暑かったが店内はクーラーが回っているにもかかわらず熱帯のような暑さで、そう広くはない店内は派手な格好をしたギンギンの客たちで一杯だった。煙草の煙が立ち込め、照明に浮かび上がる顔は皆完璧に出来上がっているようにしか見えなかった。そのくせ、曲が変わるたびに元気にステージに飛び出して行くのだった。
その頃流行っていた曲は「サタデーナイトフィーバー」で、ジョン・トラボルタが同名の映画の中で踊っていた曲だ。色々な曲を聴き、色々な曲で踊ったはずなのだが、なぜかこの曲の記憶だけが鮮烈に残っている。夜中の三時を回った頃、この店のスペシャルショーが始まる。店の若い男の子がジュリーのメドレーを口パクで踊るのがこの店のお開きの合図だった。「ダーリング」でいつも終わっていたような気がする。
確かその後、前の客の肩に両手を乗せ全員で列になって店内を練り歩き、拍手でその日を締めくくったような気がする。妻はその店のスターで、全員の顔を知っていたし、全員がまず、妻に挨拶をしに寄って来たものだった。踊り、汗を流し、備えつけの自動販売機で缶ビールを買って飲んだ。二階にあるトイレに行くと枯れ草を燃やしたような匂いが立ち込めていて、俺はどこかが焦げているのかと思って回りを見渡したものだ。
踊り疲れて壁際の椅子に座ると、妻が火のついた煙草を差し出した。いがらっぽい匂いのする煙草で、俺は細巻きの葉巻かと思った。そして、その匂いとトイレで嗅いだ匂いが同じものであることに気がついた。
妻は、吸い込んでしばらく息を止めて肺に煙をためておくように俺に言った。俺は変わった吸い方だなと思ったが言う通りにした。
俺はその晩、飲みすぎていたのだと思う。煙草を吸うと気分が悪くなって、新鮮な空気を吸うために階段を上がって外に出た。俺の後を追って妻がやって来て、街路樹の下で寝ている俺を見つけてタクシーに乗せてくれたらしい。タクシーに乗った俺は、元気になって、タクシーの運転手任せでどこかのホテルに行こうとした。運転手は俺たちの仲をどう勘違いしたのか、朝飯のちゃんと用意してある簡易旅館に案内した。俺はどこでも横になれればよかったので、入口で立ち止まりもせずに案内された二階の部屋へと上がって行った。料金は前金になっていたはずだが、俺は払わなかったから妻が払ったのだと思う。
俺は完璧に酔っていて、おまけに妻がくれた煙草のせいで喉が痛くて少しフワフワした気分だったのだが、一発やった。一発やって気がつくと朝になっていて、朝食が運ばれて来た。俺は全く寝ていなくて、真っ赤に充血した目で会社に行った。妻はそのとき男と別れたばかりで、俺も前の女房と別れたばかりだった。
1-2
前の女房とは大学の同級生で、俺がまだ学生の頃に結婚した。俺は甲斐性がなくて前の女房に食わせて貰っていたようなものだった。
大学をやっとのことで卒業し、仕事が決まり、俺は仕事に打ち込むようになった。三度目の転職でやっと人並みの給料が貰えるようになったその矢先、前の女房は男を作って出て行ってしまったのだ。俺はとても当惑したのを覚えている。
俺は、学生の頃は火炎瓶を造ったりデモに行ったりしていたのだが、芝居に凝っていた前の女房と知り合ってからは芝居を一緒にやるようになった。彼女は本気で役者になりたがっていたようで、学生時代から新劇の劇団の研究生をやっていた。俺は彼女の習い事の延長のような芝居が大嫌いで、自分で台本を書き、彼女に主役をやらせた。五、六本はそうやって上演したと思う。仕事を始めてからも一本は上演したが、それが最後だった。彼女は新劇の劇団に入りたがった。だが、彼女は俺と結婚した。結婚したことで役者になることはあきらめたと俺は思っていた。俺は、次の台本を書いたが、彼女を除いては役者が集まらなかった。
俺は仕事が面白くなり始めていた。芝居の台本では食えなかったが、仕事をすれば金が貰えたからだ。俺が始めたコピーライターという仕事は企業の提灯持ちのような仕事で、提灯記事を書いて金を貰う業界紙の記者とそっくりな仕事だったのだが、上手くいけば独立出来て作家並みのギャラが貰える可能性があった。まだその頃は広告業界と呼べるほどの実体はなく、事務所を借りて看板を上げれば広告事務所が開設出来た時代だったのだ。
俺は書くということに執着した。社会に出て、色々と出来ることの可能性を失っていく中で、それだけが最後に残ったもののような気がしていた。いい加減なものを書いても金を払ってくれるクライアントがあったことも、そう思わせる理由だったのだと思う。
俺はいつも書く書くと前の女房に言っていた。何を書くと言っていたのかと言えば、台本だった。彼女は、まだ役者に未練があったのだと思う。そして俺もまだ、仕事ではない書くことに対する興味は失ってはいなかった。何度か劇団の台本公募に応募したこともある。だが、結果は芳しくなかった。俺は仕事に没頭した。仕事仲間も楽しかったし、徹夜でデザイナーと一緒にプレゼンテーションの企画書やボードを作ることも面白かった。
そんなある日、同僚と軽く一杯引っかけて家に戻ってみると、電気も点いていない部屋の中で電話が鳴っていた。出てみると知らない女の声で
「あなた、今奥さんがどこにいるかご存じですか?」 と言う。
俺は「さあ、ここにいないことは確かですが」 と応えた。
女は続けて 「私の主人と一緒です」と言った。
「俺は、ああそうですか」と応えた。
すると女は、「あなたはどういうことなのかご存じないのね」と言う。
俺は、「どういうことなのでしょう?」と応えた。
「あなたの奥さんの下着が私の主人の車の中にありました」
「女房の下着が、ですか」
「あなた、ご自分の奥さんが何をしているのかご存じないんですか」
「・・・・・」
「あなたの奥さん、私の主人と一緒にいるんです。これだけ言ってもお分かりになりませんの?」
「・・・・・・・・・・」
「ご自分の奥さんが何をしているのか、お知りになりたくないんですか?」
「おっしゃってる意味が分からないんですが」
「ご自分の奥さんの管理くらいしっかりしていただかないと。私たち、子供が生まれたばかりなんです」
「その、つまり、うちの女房とおたくのご主人が・・・」
「もう半年くらいになると思います。お気づきにならなかったんですか」
「えっ、ええ」
「そうでしょうね、お気づきになってればこんなことにはならなかったと思います。主人は家を出てますの、この二週間ほど」
「うちの女房は、ちゃんと帰ってますけど」
「お食事はどうなさってますの?夕御飯作ってらっしゃいますか?」
「いえ、最近は僕が遅いもんで、僕は会社で済ませて帰ってくるんです」
「多分、今日はお帰りにならないと思います。うちの電話番号、申しておきますのでお電話ください」
「いえ、結構です。もうすぐ帰って来ると思いますので」
俺はそそくさと電話を切った。
夜中を回っても女房は帰って来なかった。と、電話が鳴った。
「夜分にどうも。私です。奥さん、まだお帰りじゃないでしょ」
さっきの女だった。
「えっ、ええ、まだです」
「もしかしたら、もう少ししたらお帰りになるかも知れません。車で二人でぐるぐるどこか回ってるんでしょう。もし、お帰りになったら言っておいてください。車に下着を忘れるなんて、ふしだらなことなさらないで下さいって」
女は電話を切ってしまった。俺は台所に行ってカリカリに冷えたジンをスコッチグラスに注いで一気に飲み干した。ジンはトロリとした喉越しで、食道の粘膜を焼きながら胃に向かって降りて行った。
俺はジンを飲み、コルトレーンの「クルセママ」を聴きながら女房が帰って来るのを待った。彼女は二時を回っても帰って来なかった。電話が鳴った。俺は女房だと思った。きっと仕事で遅くなったのだと思った。電話は、
「まだお帰りになってませんか?」と言った。
俺は、「どういうことなんでしょう?」と聞いていた。
「どうやら、どこかにアパートでも借りたのかもしれませんわね」
「アパートを借りる?」
「ええ、車で愛し合うのも疲れたんでしょう」
俺はそのとき、やっと事態が飲み込めた。
1-3
それから三日間、女房は家に戻らなかった。電話は毎晩あったが、あの女からだった。俺は、同病のよしみからかその女に親しみを感じ始めていた。
「一度、お会いしませんか?」
ある夜、俺は本気とも冗談ともつかないことを口走ったくらいだ。女は俺よりも大人のようで、
「お会いすることはないと思います」
と言った。多分、俺の女房は相手の男からすると若い子になるのだろうなと、その女の落ちついた声を聴きながら思った。そして、不思議なことに、一発やってもいいなと思った。その女と一発やる機会はなかったが、事態は急速に進展した。女房が荷物を取りに戻って来たのだ。
俺はそのとき、飯を炊いて夕食を自分で作っていた。女房は臆する様子もなく上がり込んで来て、荷物の整理を始めた。俺は黙ってそれを見ながら籐で出来たテーブルに食事の用意をした。そして、
「一緒に食わないか?」
と言ったのだ。彼女は黙って首を振り、離婚届の用紙をテーブルの上に広げ、
「ハンコちょうだい」
と小さな声で言った。そこにはもう女房のハンコと署名がしてあったのだが、俺は乱暴に取り上げると引きちぎって女房の顔に投げつけた。
「どういうことなんだ!」
「・・・・・」
「説明してくれ」
「・・・・・・・・・・」
「車に下着忘れてたって電話あったぞ」
「置いてただけよ」
「アパート借りたのか」
「・・・・・・・・・・・・・・・・」
「・・・・・・・・・・・・・・・・」
「私がいなくなったら、食事も作れるのね。私が作った食事は食べなかったくせに」
「仕事で遅かったんだから仕方ないだろ」
「私、毎晩待つだけだった」
「今、チャンスなんだ。頑張らないと」
「仕事って、お金が儲かれば何でもいいじゃないの。あなたは何もしていないじゃない」
「何もしていないって?」
「あなたのすべきことよ」
「俺のすべきことって?」
「もういいの、私行くわ」
俺は立ち上がりかけた女房の頬を張った。襟首をつかみ、寝室に連れて行くと洋服を脱がしにかかった。女房は抵抗しなかった。そうされることをあらかじめ予測していたように無抵抗だった。素っ裸になった女房を俺は犯そうとしたのだが、俺の体はいうことをきかなかった。俺は女房の体をアザが出来るくらい殴った。頭も胸も脚も腹も背中も無茶苦茶に殴った。俺の両手の指にも同じようなアザが出来た。
それからしばらくして、俺は引っ越すことにした。家財道具のほとんどは女房のものだったのだが、俺は引っ越し屋に頼んで女房の住むアパートにまで運んで貰った。女房は、そのときにはもう男と別れて一人でアパートを借りて住んでいた。俺は新しい女が、つまりは今の妻なのだが、いたし、女房ともう一度やり直そうという気はさらさらなかった。俺は、女房と正式に別れて小さなアパートに一人引っ越した。そして、同じ日、妻は俺の引っ越したアパートの隣の部屋に引っ越して来た。
片付けが終わり、飯でも食いに行こうかという相談を妻としていると、入口に前の女房が立っていた。
「片付け、もう済んだのか?」
「どうせまた引っ越すつもりだから。その人は?」
「ああ、隣に今日たまたま引っ越して来た人だ」
「そう」
「飯でも食いに行かないか」
「いいわ。その人と行くつもりだったんでしょ。私、帰るわ」
隣同士の暮らしは少ししか続かなかった。いつも妻は俺の部屋にいて、自分の部屋には帰ろうとしなかった。
俺の部屋には、隣に越してきた妻が引っ越し祝いにくれた小さな鉢植えがテレビの上に乗っていた。その鉢植えは、妻が持って来たときには紅葉の苗木のように見えたが、水をやるだけですくすくと成長し、その葉を摘んで乾かしておけばいつでも好きなときに一服することが出来た。妻は、それを一緒に吸いたいと言っては俺の部屋に居座り続けた。
第二章
2-1
ロサンジェルス空港に到着し、ホテルにチェックインする前にトラブルが発生した。荷物の中で一番大事な物が紛失してしまったのだ。俺はその頃、釣り具メーカーの仕事をしたのをきっかけに、フライフィッシングを始めたところだった。そして、その旅行は俺の初めての海外フィッシングツアーだったのだ。と言っても、旅費は妻のおごりで、何でも安いツアーが見つかったからだとか言っていた。とにかく、俺は妻に言われるがまま一緒にアメリカまで行くことにしたのだ。
一日ホテルで待つうちに荷物が出て来た。ホテルはセンチュリーウィルシャーだったと思う。そのツアーは、最初の一泊だけは豪華なホテルがセットされたディズニーランドツアーで、俺たちはそのツアーの足買いだけして、ヨセミテパークに行くことにしていた。妻は、きっと俺と一緒にディズニーランドに行くつもりだったのだろうが、俺はそのときフライフィッシングにしか興味がなかったのだ。妻はしぶしぶ承諾したに違いないのだが、決して嫌な顔は見せなかった。嫌な顔を見せないどころか、自分も自然が大好きで、フライフィッシングに行きたいと言ったのだ。俺は、それは本当のことだと思っていた。
ロサンジェルスからフレズノに飛び、フレズノからバスでヨセミテパークに着いた。ヨセミテパークには写真で見たとおりのハーフドームがそびえていて、川もあり、魚もいたのだが釣れなかった。夕食に出て来た虹鱒のムニエルを食べながら、俺はどうしてこんなところまで来たのだろうと、妻の顔を見ながら思ったものだ。俺はヨセミテにいる間中体調が悪くて、ほとんど何も出来ない状態だったのだが、やることだけはやっていた。
数日後ロサンジェルスに戻ったが、今度はラマダインという最低のモーテルだった。俺はそのモーテルで寝込んでしまった。あの時だけは本当に参った。あのとき、ロサンジェルスに住んでいる妻の女友達がつき合っていた男がたまたま医者でなかったとしたら、とんでもないことになっていたと思う。疲労からの風邪だったのだが、その医者のお陰で注射一本で元気になった。まだ俺も二十代で若かったせいもあったのだろう。俺が元気になると、妻と妻の女友達と俺の三人はラマダインで大パーティを開いた。葉っぱと白い粉の大盤振る舞いだったのだが、俺は白い粉の方は余り好きになれなかった。女たちはそっちの方が好きなようで、鼻から吸ってはケタケタと笑いあっていた。俺はもっぱら葉っぱの方で、思い切り吸って肺に溜める練習をしていたお陰で、結構面白いトリップが楽しめた。
アメリカから戻って、俺と妻とは一緒に暮らすことになった。妻が俺の会社の近くにアパートを見つけて来て、勝手に契約を済ませて来たからだ。俺たちは同時に契約したアパートを同時に解約してそのアパートに一緒に引っ越した。そして、すぐに妻は妊娠した。前の女房との間には子供はなかった。俺は子供にはまったく興味がなくて、欲しいと思ったことは一度もない。女房は学生の頃から何回か堕ろしていて、もう子供が生めなかったのかもしれないが、結婚している間に妊娠したことはなかった。妻は妊娠したとき、「私一人で育てるから心配しないで」と言った。俺はそれを信じて「じゃ、勝手に生めよ」と言った。前の女房も子供が欲しいと言っていた。俺はそれは拒否していたのに、妻の言葉を鵜呑みにしてしまったのだ。妻の腹が日に日に大きくなって行くのを、俺はうとましく見ていた。
「近くに来てるんだけど会えないかしら」
会社にかかって来た電話の声は前の女房だった。俺は会った。そしてその夜、一発やった。それから何度か彼女のアパートまで行って泊まることもあった。男は俺一人ではなかったと思う。俺はそのとき、不思議なことに他の男に彼女を取られまいとしていた。
妻が子供を生む一ヵ月前、俺は妻を籍に入れた。子供を父なし子にしたくなかったからだ。育てるのは妻一人でも出来ることだが、生まれたときから片親というハンディは与えたくなかったのだ。
妻に子供が生まれた。俺の子供でもある。俺はその日、殊勝にも病院まで駆けつけた。その日は強い風にあおられて嵐のように雨が降り、凄まじい雷までも鳴っていた。俺はそのときにはもう会社を辞めていて、いっぱしのプロデューサーとしてテレビの番組を作っていた。妻はスタイリストを子供が生まれる直前までやっていたが、三年間の休業宣言を行って主婦業に専念すると言いだした。一人で育てるのは確かだが、経済的負担は放棄するということらしかった。俺の仕事は順調だったし、女を食わせて来たことはそれまでなかったので、俺はそれを結構新鮮な経験として楽しむことが出来た。妻はすぐに主婦よりも妻よりも母を優先させるようになった。俺は俺で仕事にかまけることでその日その日をやり過ごしていた。前の女房とはしばらく会わないままだったが、俺はそれを気にもとめていなかった。
ある日、俺はふと思い立って前の女房に電話した。俺の仕事仲間が、前の女房の勤め先の電話番号を知らせて来たからだ。彼女は広告代理店で働いていた。なぜ電話したのかその理由はよく分からないが、俺はそのとき、誰かと話をしたかったのだと思う。それも、俺のことを良く理解してくれている誰かと。俺はその夜、前の女房と飲みに行った。彼女の行きつけのバーに行って、散々飲み、酔ったあげくに俺は店中に聞こえるような大きな声で
「俺はこの女と結婚します!」
と宣言したのだ。なぜそんなことを言ったのか分からないのだが、そのときは本当にそう思っていたのだ。そして、その夜近くのシティホテルで一発やった。前の女房は俺にその夜一緒に泊まってくれと言うので、もう一発やって、俺は寝込んでしまった。
2-2
俺のアパートは大通りから一本入ったところにあり、大通りと石段でつながっていた。俺が、翌朝着替えをするためにアパートに帰ろうと石段を上って行くと、上から妻が下りて来た。
「どこに行ってたのよ!」
「編集で徹夜だ」
「嘘、事務所にも、スタジオにも電話したのよ。編集の予定なんかないじゃない!」
「急に決まったんだ」
「ホテルにも全部電話したんだから!」
俺は偽名にしておいて良かったと思った。だが、妻は俺の言うことを全く信じているようには見えなかった。
それから何回か前の女房とは会った。
会って話していると、どうしてこんなに理解してくれるのかと思えるほど彼女は優しかった。そして、会うたびに一発やった。一発やりながら、俺は、あのときの彼女と同じ立場にあるということに気づいた。子育てにかまけているのか仕事にかまけているのかの違いはあっても、要するに自分の方を見てくれない相手に愛想がつきていて、他の誰かに構われたい、構いたいという状況にあるということに気づいたのだ。
彼女は俺にまだ未練があったし、俺にも未練があったのだと思う。彼女があんなことさえしなかったら、と思う気持ちが彼女の素直な優しさを増幅させて、俺は彼女にいとおしささえ感じていた。
そんな暮らしは半年ほど続いた。
俺たち一家は、急に引っ越しすることになった。俺たちのアパートの南側に新築のマンションが建ち、まるで日が当たらなくなったからだ。妻は子供の健康のことを盾に取り、引っ越しをせまった。俺は、このマンションの建設途中から騒音に対して文句を言いっぱなしで、家主の顔も何度か見て知っていた。だが、俺たちが見学に行くと、手のひらを返したように愛想良くて、優先的に部屋の選択をさせてくれた。
新しいマンションに引っ越してから半年ほど経った子供が三つになろうかという頃、俺は珍しく朝飯を食って事務所に向かった。というのは、長い間俺は朝飯抜きの暮らしを強いられていたのだが、その日は妻が朝飯を作ってくれたのだ。事務所に着いてから二時間ほどして、俺はその日の打ち合わせの資料を家に忘れて来たことに気がついた。昼飯を食ってから取りに戻るか食う前に取りに戻るか少しだけ考えたが、とりあえず取って来ておくことにした。
家に着いてチャイムを鳴らしたが妻は留守のようで応答がなかった。近くの公園に子供を遊ばせにでも行っているのだろうと思い、鍵を開けて中に入った。その途端、俺は部屋を間違ったのだと思った。
部屋はがらんとして誰もいなかった。それだけではなかった。部屋の中には、まるで賃貸アパートの下見に行ったときのように何もなくて、ただの箱になっていた。俺たちはもともと余り荷物を持たない暮らしをしていたから、カーペットに家具の跡が残っていたりすることもなく、まっさらの部屋に見えた。一枚の置き手紙すらなかった。
俺は妻の行き先を捜すことはしなかった。しばらくは置かれた状況を楽しむことにしようと決めた。何しろ二度目のことだったから、最初のような狼狽はなかった。俺は真先に前の女房に電話した。だが、それは余りいいアイデアとは言えなかった。前の女房にはすでに男が出来ていて、俺とはお義理でつき合ってくれていたことが分かった。
俺は女には困っていなかった。いつも三人くらいのいつでも一発出来る相手はいた。だが、面倒臭さが先に立って、やった後のことを考えてしまうようになっていた。ステディな関係というのは、体だけじゃ仕方ないのだ。もっとも、体の伴わない関係などはあるはずもないのだが、お互いに理解し合えるまでに費やされた労力に対する代価は途方もないものがある、ということにそろそろ俺も気づき始めていたのだ。前の女房は、彼女のつき合っていた男にやって、俺は彼女と縁を切った。
その頃つき合っていた女たちの中に一人だけ面白いのがいた。俺とほとんど同じ時期に男に逃げられた女だ。彼女は俺の子供と同じ歳の子供がいて、同じ男の子だった。話が合った。俺たちはよく三人で旅行に行った。フライフィッシングにも連れて行ったし、ドライブにも乗馬にも一緒に連れて行った。三歳という、一番可愛い年頃だった。俺は、気楽なバチュラーライフを楽しんでいた。
俺は仕事には恵まれていて、新しい仕事がいつも俺を追いかけて来た。その仕事も新しく依頼された仕事で、マウンテンバイクという、野山を駆けるために生まれた自転車のプロモーションをやることになった。俺は雑誌社と組んでマウンテンバイクのレースを企画した。その当時はまだマウンテンバイク自体が日本に入ってきたばかりで、台数も知れていたのだが、自転車のメーカーから数台ずつ提供して貰い、試乗会を兼ねたレースをすることで身近にマウンテンバイクを感じて貰おうという趣旨だった。雑誌にはその模様を掲載して貰うことが決まっていた。レース場は夏のスキー場に決まった。スキー場の夏場のスポーツといえばテニスと相場が決まっており、それ以外のスポーツによる、夏のオフシーズンの活性化策を模索していたスキー場と上手くドッキング出来たのだ。
前夜祭の夜、俺は有頂天になって飲みすぎたし、異常にはしゃぎすぎた。多分気づかないうちにストレスが溜まっていたのだと思う。レースの開催に伴うトラブルのせいではない。別居中という不安定な状況のせいだった。前祝いの酒宴の後露天風呂に入りながら、「明日の天気が良ければもう成功は間違いなしですよ。後は事故さえなければね」と俺は関係者にうそぶいていたのだ。確か夜中の三時を回っていたと思う。
翌日、申し分のない青空が広がっていた。俺は真っ赤に腫れた目をしばたたきながら、レース前の試走のためにスタートラインに並んだ。夏のゲレンデは冬に見るそれとは違って起伏も豊かで大岩や立木が行く手をさえぎる。それらの間を縫ってコースは仕立てられているのだが、杭を打ち、ビニール紐を巻きつけてコースを示してあるだけの簡単なものだ。ブレーキ操作を誤ると事故の危険性がないとは言えない。そんな事故を未然に防ぐために俺たちの試走はあったのだ。
俺はなぜかスタートと同時に体重を前輪に乗せ、ペダルを思い切り踏んだ。なだらかなゲレンデではあったが、自転車はスピードに乗って疾走し始めた。カーブを切るにはスピードが出すぎている。俺は、左手でブレーキをかけた。瞬間、俺の体は自転車を飛び越えるように投げ出され、目の前の岩に向かって飛んで行った。岩がスローモーションで近づいて来るのが見えた。咄嗟におれは首を右にねじり、顔をかばっていた。
2-3
強烈な吐き気の中で気がついてみると、俺は岩を抱くように倒れ込んでいた。遠くで、「あのようにスピードを出しすぎると大変危険ですので、注意しましょう!」と、俺の連れてきた女性アナウンサーの卵が茶化しながら解説している声がスピーカーから流れているのが聞こえた。
左の鎖骨が折れていた。それも、骨が飛び出すほどの複雑骨折だった。吐き気の後には悪寒がおそって来た。真夏というのに、俺は長袖のシャツを二枚重ねてふるえていた。医者は即刻入院を告げたが、俺はそれを拒否して麻酔を打ってもらい新幹線に乗った。
俺は新幹線の中から、迷わずに子持ちの女に電話して、車で迎えに来てくれるように言い、救急病院の手配も頼んだ。そのときには、なぜか妻の顔は思い浮かばなかった。
救急病院に着いたのは、ほとんど夜中になってからだった。子持ちの女は一晩中俺のベッドサイドにいて、麻酔が覚めて痛がる俺をなぐさめ、一緒に夜を明かしてくれた。
一週間もすると、俺は退屈するようになった。痛みはまだあったし、そのくせ手術した部分は痺れていたのだが、冷房の効かない個室に一人寝ていると汗が石膏で固めたギプスの中を流れていくのが分かった。おまけに痒くて痒くて仕方がない。することといって、読書くらいしかないのだが、本を読んでいるよりも背中をアルコールを浸したガーゼを先端にくくりつけた菜箸で掻いている時間の方が長いくらいだった。
二週間経って、色々な人間が見舞いに来てくれるようになった。子持ちの女に、連絡しておいてくれるように頼んでおいたのだ。仕事仲間に、クライアントに女たち。前の女房に、出て行った妻に、遊んだことのある女たち。子持ちの女は、昼と夜の二回来てくれていた。
三週間経つと、俺は近所のスナックに夜こっそり飲みに行くことが出来るくらいに回復していた。ある夜、俺がスナックで寝酒を飲んでベッドに入ると、病室のドアに影が映った。
もう面会時間はとっくにすぎているはずだ。俺が寝たふりをしていると、その影はそっと部屋に入って来て俺にキスした。一度キスして去りかけたが、俺が反応を示さないのを確かめ、もう一度長いキスをくれてきた。
俺はその唇を思い出そうとした。
初めての唇だった。俺は目をつぶったまま女の尻に手を回した。大きな尻だ。女は両手で俺の顔を挟んでしっかりとキスし始めた。俺は右手を尻から両脚の間に移動させると、下着の上からクリトリスの辺りを中指で擦った。
女は一瞬ピクッと腰を動かした。俺は下着の横から指を入れ、深い闇に沈めると抜き出し、突起した肉片をさすり続けた。女は洋服を着たまま俺のベッドに入って来て俺の上に跨がると、パジャマの前から俺の固くなったものを取り出し、自分の下着の隙間からそれを差し入れると尻を上下させ始めた。
空調の止まってしまった室内は蒸し暑くて、女の下着も俺のパジャマも汗と粘液でベトベトになった。終わると、女は安物の化粧品とクレゾールの臭いを残して出て行った。
俺は退院してマンションに帰ってきた。何もないガランとした室内にギプスをして壁にもたれていると、俺は俺自身がオブジェになってしまったような気がした。外では夏の終わりを告げるように蝉がやかましく鳴いていた。俺のマンションにはいろいろな女が入れ代わり立ち代わり出入りした。俺はその女たちとギプスをしたまま一発やった。
三ヵ月が経ってやっとギプスが取れ、中から現れて来た、骨に白い膜が貼りついたような腕を見て、死体の腕みたいだなと俺は思った。鎖骨のつなぎ目にはまだワイヤーが巻きついていたが、何とか日常生活は送れるようになったのがうれしかった。
俺が退院してから、出て行った妻から頻繁に電話がかかるようになった。
「かわいそうだから、週一回だけ子供と会わしてあげる」
何度目かの電話で彼女はそう言った。俺にはそれが、俺とのヨリを戻したいからそう言ったのではなく、子持ちの女から引き離すために言ったことは分かっていたが、子供の顔は見たかった。俺はその言葉に乗って、きちんと日曜日にだけ子供をを連れて郊外にドライブした。
俺は、子持ちの女と会わなくなった。その他の女たちとも。
第三章
3-1
俺は郊外に引っ越す決心をした。出て行った妻の実家の近くだ。俺はアパートでもなくマンションでもなく一戸建ての物件を探した。今まで住んだことがなかったので住んでみたかったというのが表向きの理由だが、本当は、毎日曜日子供と会っていろんなところに連れて行くうちに、土の上に建っている家でなければいけないと思うようになったのだ。
俺はマウンテンバイクはあれ以来やめてしまったが、フライフィッシングはやめていなかった。左腕の力が不足していて、始めのうちはとても辛かったが、ダムベルを買い込んで筋力トレーニングを施したお陰で、何とかラインをコントロールすることが出来るようになった。俺は息子にフライフィッシングを教えることに夢中になった。
息子はまだ三歳になったばかりで、筋力もなく、とてもラインを飛ばすことは出来なかったが、一生懸命に竿を振る姿に俺は父親を実感していた。
しばらくして、二人は俺の家に戻って来た。
俺は有頂天になって、いい父親を演じることを心に誓った。仕事は順調だったし、ますます大きな仕事が入って来るようになった。ハワイを手始めに、フランス、イタリア、スペイン、スイス、イギリスにまで撮影隊を引き連れて行くようになった。アメリカには毎年のように行った。
年五回は海外での撮影だった。
妻は三年の年季明けを宣言し、スタイリストに復帰した。俺が指名して海外に一緒に行くこともしばしばだった。俺のフライフィッシングも、国内ではなく、スコットランドのプライベートリバーで毎年サーモンを釣るという、釣り仲間にひんしゅくを買う頂点の釣りにまで達していた。
一戸建てに住んで四年ほど経った頃だった。ちょうど海外撮影から帰国した日、まだ時差ぼけの頭を抱えている俺に、その不動産屋は言った。
「この物件、当社で管理することになりましたので、明け渡して頂きたいんですが」
「どういうことなんですか」
「いや、この物件の持ち主が当社に引き取ってくれと申してまして」
体のいい地上げだった。結局、交渉の末、破格の引っ越し料と引き換えに明け渡すことにした。俺たちは金には困っていなかったし、これからも幾らでも稼ぐ自信があったし、もうそろそろその一戸建てにも飽きて来た頃だったからだ。
そのマンションは妻が見つけて来た。部屋の広さとベランダの広さが同じというそのマンションは、妻の実家にもより近かったし、その辺りで一番家賃の高いマンションだというのが気に入った理由だった。俺は賛成もしなかったし反対もしなかった。家賃が一戸建ての倍もするマンションだったが、その物件を管理する不動産屋の営業マンの感じが良かったという理由で契約してしまった。俺は契約を済ませると、いつもの年のように、スコットランドにサーモンフィッシングに出かけた。
十日間の釣りの旅を終え、俺は新しいマンションに戻って来た。出発したのは一戸建ての方だったが、俺が釣りに行っている間に、妻が引っ越しをしておいてくれたのだ。ベランダには板を張って白ペンキを塗り、家具はサザビーで統一し、すべてが輝いていた。
3-2
新しいマンションでの新婚生活が始まることになった。というのは、妻は勝手に離婚届を役所に提出してあり、俺は知らない間に離婚していたのだ。だから、もう一度役所に婚姻届を提出に行ったのだが、役所の事務員は「同じ人との結婚は復縁届になります」と言って俺の顔を見た。その顔には「物好きですねぇ」と書いてあった。
引っ越しパーティの日、五十人を超える人々が俺たちの新居に集まった。俺の友人が三分の一、妻の友人が三分の一、共通の友人が三分の一だった。その日のパーティはワインパーティで、呼ばれたゲストは必ずワインを一本持って来ることになっていた。妻はそんなテーマパーティをするのが大好きで、パジャマパーティや、水着パーティや、ドレスアップパーティやをしたのを覚えている。
友人たちは俺たち三人の復縁生活をとても喜んでくれた。俺の妻の料理はとても本格的で、まるで撮影でもするかのようなテーブルセッティングと華やかな盛りつけには人気があったのだが、俺たちは正式に復縁するまでは一切パーティはしなかった。招待客たちは久し振りの妻の料理を堪能出来た喜びにあふれていた。
俺たちの生活はとても安定していた。昼前には二人でブランチを食べ、俺たちは一緒に事務所に行った。子供も十歳になっていた。俺の事務所も会社組織になり、社員も五人雇うことが出来る規模になった。妻も役員になった。スタイリストの仕事も順調で、テレビタレントの専属スタイリングで確実な収入を上げることが出来ていた。五人の社員のうち三人は妻のアシスタントで、一人が俺のアシスタント、もう一人が事務員だった。
俺は仕事が早く終わると、家に帰って来てベランダの椅子に腰を下ろし、カンパリソーダを飲みながら暮れなずむ夕陽を見ているのがお気に入りだった。時にはマルガリータやジンリッキーなどのきつい酒を飲むこともあったが、妻が帰って来るまでの静寂の時間をそうして、ゆったりとした気分で費やすことが多かった。
妻はどんなに仕事が忙しくても自分で料理を作った。まるで毎晩がディナーパーティのような食事だった。クリスマスから正月にかけての豪華さは、どのレストランに行ったとしても、海外の本場のレストランに行ったとしても出会えないような料理だった。フランス料理のこともあったし、イタリア料理のこともあったし、ドイツ料理のこともあったし、タイ料理のこともあったし、ベトナム料理のこともあったが、どの料理もスパイスとエスプリの効いた完成度の高い出来だった。
その夜は、確かイタリアンだったと思う。ピンクのテーブルクロスにイタリアワイン、ズッキーニのサラダにパスタは極細のイカ墨スパゲティ。それに、トマトのスープだったと思う。ただし、妻の帰りはいつもより遅く、俺はベランダでいつもよりも多めのアルコールが入っていた。
3-3
食事が始まり、イカ墨スパゲティが出て来た。こいつを食うときには注意しないと、白いシャツなどに墨が飛んでしまって台無しになるのだ。それに、口の中も真っ黒になってしまうので、よほど気を許した相手と食べない限りは礼を失する可能性の高い食べ物の一つで、俺は好きではなかったが、妻は大好きだった。
俺は、注意しながらフォークを使って黒い固まりを口に運んだ。そのとき、息子がテーブルクロスの上にスパゲティを落とした。息子は、口をテーブルの上まで持って行くと、それをフォークで引きずるようにして口に入れようとした。ピンクのテーブルクロスの上には、黒い大きな染みと引きずったために出来た墨の跡が残った。
「誰が教えたの、そんな食べ方!」
その声と同時に妻の右手が動いて息子の皿をはね飛ばした。皿はテーブルの上を滑り、テーブルの上にあった息子の口に当たった。ガチッという、皿が歯に当たる音がして、息子の口が切れた。ピンクのテーブルクロスには今度は、黒い染みではなく、赤い染みが出来た。息子は泣き出しもせず、妻の顔を見上げた。
「何よ、その目は!」
今度は妻の右手が息子の顔の真正面に当たった。息子は椅子ごと吹っ飛んで頭から床に落ちた。床はカーペットではなく、板張りになっていたのでゴツンという鈍い音がした。
「何をする!」
と俺が叫ぶのと息子が泣きだすのとは同時だった。俺は息子を抱き起こしながら、頭をさすった。
「大丈夫か」と聞くと、大きく頭でうなずいた。
「ほっときなさいよ、そんな子!」
「まだ十才なんだ、仕方ないだろう!」俺も叫んでいた。
「十才までにテーブルマナーは教えないと駄目なの!ちゃんと出来るように協力してよ、あなたも!」
俺は息子に大丈夫か大丈夫かと聞きながら椅子に座らせた。ワインをグラスに注いで一気に飲んだ。心臓の鼓動が速くなっていた。俺は食欲をなくし、息子のフォーク使いを見ていた。息子は落とさないようにこぼさないように注意しながら、恐る恐るスパゲティを口に運び、口の回りを真っ黒にしていた。
「もう、食べないの?!」妻が俺に聞いてきた。
「えっ、ああ、うん、もういい。俺、スープにする」
「美味しくないの?私が作ったのは食べられないの?」
「えっ、いや、そうじゃないけど、食欲なくって」
「何か食べたの?私が帰って来るまでに」
「いや、何も。食べる訳ないだろ。ずっと飲んでたんだから」
「いいわね。ご自分ばっかり。私は飲まず食わずで帰って来たのに」
「何もそんなこと言ってないだろ」
「イカ墨スパゲティもいろんなレストランで召し上がっているでしょうから、珍しくも何ともないわよね」
「おい、何なんだ」
「私はレストランに連れて行って貰ったこともないのに」
「・・・・」
「不味いのね。そうでしょ!」
妻は俺のスパゲティの皿を持ち上げると、俺の顔めがけて放り投げた。俺は危うくかわしたが、ガチャンという音をたてて俺の後ろの白い壁にぶつかって、黒い染みをつけた。
「食べなくていいのよ!あんたも食べにくくて嫌なんでしょ!」
今度は息子の皿をはね上げた。皿は息子の頭の上を飛び、やはり同じ音をたてて床の上に落ちた。
「スープね、分かりました。スープにしましょ。私は食べてちゃいけないのね!」
妻は立ち上ってキッチンに向かい、スープをよそおうと戻ってきてテーブルの上にゴトンと皿を置いた。スープは少しだけこぼれて、テーブルクロスにトマトの染みをつけた。
「バジル、お好みでどうぞ」
「熱っ、これ、こいつにはちょっと熱いんじゃないか」
「食べなきゃいいじゃない!それなら!」
妻が皿を運び去ろうとするのを俺は皿の縁を持って押さえた。
「熱いのね、分かったわ、冷ませばいいんでしょ!」
妻はそう言うと冷蔵庫から氷を持って来てスープ皿に放り込んだ。スープは飛び散って、テーブルクロスに沢山の染みを作った。そのやり取りを見ていた息子は、乾いた唇をして震えている。
「おい、どうしたんだ。やめろよ!」
「熱いんでしょ、熱いって言ったじゃない!」
「氷なんか入れることないじゃないか!」
「氷は要らないのね、じゃあ何?何が要るの?!どうやって冷ますの!」
妻はスープ皿の氷を手でつかむとキッチンの方に向かって放り投げた。
「やめろよ、おい。いい加減にしろ!」
「あなたこそいい加減にしてよ!何よ、毎日毎日ベランダでボーッとして。私は何よ、毎日仕事して帰ってんのよ。そして、帰って来たらすぐに座る間もなく食事の支度。作ったら作ったで不味いとか美味しくないとか文句ばっかり!」
「不味いとか何も言ってないじゃないか。熱いって言っただけだろ」
「同じことよ!熱いから食べられないんでしょ!」
妻はそう言うと、俺のスープの皿をひっくり返した。スープは俺のシャツに飛び散り、息子の顔にかかった。息子は顔にかかったスープを手でぬぐい、その手をテーブルクロスで拭くと椅子から立ち上がろうとした。
「どこへ行くの!食事中は立ち上がったら駄目だって言ったでしょ!」
「オシッコ」
「駄目!食事中にトイレなんて絶対に駄目。座りなさい!」
「おい、子供だろうがこいつは!」
「子供のときから癖をつけておかないと、大人になってから恥をかくのよ」
「トイレを我慢させることはないだろ」
「駄目よ、座ってなさい」
「じゃ、御馳走様しろ、な、それならオシッコ行けるんだ」
「駄目、この子はまだスープが残ってます。それが済まないと御馳走様は許しません!」
息子は立ち上がって椅子の横でズボンの前を押さえて足踏みを始めた。
「我慢出来ないんだ。行かせてやれよ」
「私だって我慢できないのよ。す・わ・り・な・さい!」
そう妻が言ったとき、息子のズボンの前に小さな黒い染みが出来、やがてすぐに大きく広がり、両脚の間からポタポタと滴り始めた。と同時に両目には涙が浮かんで来た。
「お漏らししたのねえーっ!偉いわねぇ!」
「見ろ、トイレに行かせてやらないからだ」
「床がビチョビチョじゃない。きれいにしなさい!」
息子は、両足で濡れた床を拭く仕種をしながら、しゃくり上げ始めた。
「ますますビチョビチョになるじゃない、そんなことしたら!」
「冷たい」
「冷たいの?温かいんじゃないの?」
「冷たい」
「そーお、冷たいの。じゃ温かくしてあげましょうか」
妻は自分のスープ皿を持って立ち上がると、息子のズボンのゴムを引っ張って隙間を作るとその中にスープを流し込んだ。
「熱い、熱い。熱いよーっ」
息子は飛び上がって走り回った。
「ホホホホホ、おちんちん大丈夫?冷たいなんて言うからよ」
「やめろ!」
俺はそう叫びながら、息子のズボンを脱がせ、パンツも脱がせて風呂場に連れて行った。連れて行く俺の背中に
「男同士、仲良くしなさいよ!」
という妻の声が聞こえた。俺は、風呂場で息子を裸にすると、ぬるいシャワーとボディシャンプーで全身を洗い、新しい下着とパジャマに着せ換え、軽い火傷をしたおちんちんにクリームを塗ってやり、子供部屋に連れて行ってベッドに寝かしつけた。
3-4
ダイニングルームに戻ると、部屋の壁中にイカ墨スパゲティがぶちまけてあり、壁を伝った墨の跡がポップアートのような模様を残していた。妻は、と見るとテーブルの上に顔を埋めさめざめと泣いている。俺はため息をつき、残ったワインを自分のグラスに注ぎ、口に持って行った。
「私にも頂戴」
イカ墨の臭いとオリーブオイルの臭いが立ち込めるダイニングルームで静かにワインを飲みながら、荒涼とした風景画の中の二人になって見つめ合った。
「疲れてるんだ、君は」
「ごめんなさい」
「どうしたんだ一体」
「今日、仕事先でスタイリストなんかやめろって言われたの」
「コーディネイトが気に入らなかったのか」
「私、メンズは無理だって」
「確かにな。そうかも知れん」
妻はワイングラスの脚を持ったまま底をテーブルにぶつけた。ワイングラスは脚の部分からグシャッと潰れるように崩れ落ち、中に入っていたワインがこぼれた。
「何ですって?貴方までそう言うの」
「だって、メンズはいつだってオーセンティックだしトラッドなんだ。そういうのって興味ないだろ」
「分かってるわよ、そんなこと貴方に言われなくても!」
「おい、落ちつけよ。俺が言ってるんじゃないだろ」
「そう思ってるのね、貴方も。私、スタイリストはもう無理だって!」
「何もそんなことは言ってないだろ。でも、若くって安い子とじゃ勝負にならないような仕事なら、やめてもいいんじゃないか」
「私は、おばさんな訳?」
「いや、スタイリストってのは若くてギャラの安い子に仕事が行くって言ってるんだ。君がファッションスタイリストだって言うんなら、その分野で生きるべきだろう。何もテレビタレントのスタイリングなんかすることはないんだし」
「私にスタイリスト、やめろって貴方も言うのね」
「いや、そうは言ってない。本当に君がやりたいことをやればいいって言ってるんだ」
「偉そうなこと言うのね、ちょっと売れてると思っていい気にならないでよ!私がこの仕事してるからこんなもの食べられてるのよ。貴方の着てるその服だって、皆私が買ったんじゃない!子供の教育だって、ベビーシッター代だって皆皆私が払って来たのよ!貴方は魚釣りばっかり!好きなことにばっかりお金を遣って。私は家族の犠牲よ!この十年間、私は家族のために働いて来たのよ。私の人生を返してよ!」
俺は、新しいワインを一本と割れてしまった妻のグラスの換えを取りに立ち上がった。
ワインを飲みながら妻とは朝まで話したが、進展はなかったし解決の糸口もなかった。俺の問題ではなく、彼女の個人的な問題なのだ。俺たちの問題ではあるが、俺だけの問題ではなかった。白み始めた窓越しの朝の光の中で妻が言った。
「私、スタイリストやめる。明日から食べさせてね」
第四章
4-1
俺は毎晩外食をするようになった。あれからというもの、妻はまったく料理も洗濯も家の掃除も何もしなくなったからだ。家は荒れ放題だった。妻と息子は毎晩のように出前を取ったりインスタントラーメンで済ませたりしていた。やめろと言った手前、俺はしばらく様子を見ることにした。
妻は急激に痩せ始め、息子を学校にやらずに休ませるようになった。俺は、息子の栄養状態と健康が心配になり、惣菜を買って帰ったり、夕食を作ったりするようになった。息子は俺の作る料理を気に入って食べた。もっとも、俺はテーブルマナーに小うるさいことを言わなかったし、そんなものが必要な料理でもなかったのだ。だが、妻は俺の作った料理を口にすることはなかった。
妻はますます痩せて行った。病的な痩せ方が俺は気になった。それは、近くに住んでいる妻の両親も知るところとなり、心配して見に来てくれるようになった。俺はそれがとてもうっとうしかった。大の大人に干渉して欲しくはなかったからだ。これは、彼女の問題なのだ。俺は、
「お二人の育て方が悪かったからこうなったんです」
と妻の両親に悪態をついた。
妻が事務所にもまったく顔を出さなくなったせいでアシスタントたちは右往左往していたが、所詮カバーし切れるものではなかった。タレントの仕事はなくなり、撮影の仕事も来なくなった。
ある日、俺が惣菜を買って帰って来ると、妻の両親と息子が三人で待っていた。俺がテーブルに座ると、妻の父親が一枚の紙切れを見せた。その紙切れには、妻の字で、
「モデルクラブをやることにしました。アメリカ、ヨーロッパ、オーストラリアのモデルクラブを回ってきま~す!一ヵ月位でもどりま~す!」
と書いてあった。
息子は両親が見てくれることになり、俺に、突然のバチュラーライフが訪れた。俺は久し振りの自由を満喫していた。残念ながら釣りはシーズンオフだったので、飲み屋を梯子するくらいしか楽しみはなかったが、その日のうちに家に帰らなくてもいいという解放感は何物にも換えがたかった。
俺は突然、車を買うことにした。俺はフライフィッシングを始めてからは四駆に乗り換えていた。レオーネを二台乗り継ぎ、レガシィに乗っていたのだが、俺にはどうしても乗りたかった車があった。その車が手に入ることになったからだ。
その車は、アウディが本格的にワールドラリーに参戦するために開発を進め、一九八〇年に発表した世界初のフルタイム四駆で、その明快なコンセプトを反映して「クアトロ」とネーミングされていた。クアトロはデビューと同時にラリー界を席巻し、「カーグラフィックス」の表紙を独占し続けた伝説の車だった。日本への輸入は、当時代理店だったヤナセが数台行ったが、二二〇〇CCで二〇〇馬力という車格にしては高価すぎることから販売されることはなかった。
雑誌でしか見たことのない車が並行輸入されていることを知ったのは、妻が旅行に出てからすぐだった。俺は長い間、カー雑誌など買ったこともなかったのだが、たまたま入った喫茶店においてあったのをめくっているうちに、クアトロの広告にぶつかったのだ。住所を確かめると、すぐ近くだった。俺はその喫茶店から真っ直ぐにその広告主が開いているショールームに向かった。そして、契約した。俺にとっては、どうしても一度は乗ってみたかった車の一台だったのだ。
その車がデビューしたのは、ちょうど十年前のことだった。それは俺が独立して事務所を開いた年と同じ年で、まだ備品の少ないがらんとした事務所で、クアトロが表紙になった「カーグラフィックス」を読んだ。デビューから三年に渡って、毎号のように表紙を飾っていたのを俺は鮮烈に覚えていた。
「もう、誰も買う人がいないんですよ。相当なマニアでも、今はランチア・デルタ・インテグラーレに流れてしまって。あれでも今は二五〇馬力ですからねぇ」
ショールームのオーナーはそう言った。
「ターボつき二二〇〇CCで二〇〇馬力って当時は怪物でしたよねぇ」
「この十年ってのは車が最後の進化を遂げた年って言えるんじゃないかなぁ。日本の安物のスポーツカーだって二〇〇馬力が普通になりましたからねぇ。タイヤも良くなったし」
「でも、世界初のフルタイム四駆なんでしょ」
「ええ、今やそれだけが売りってとこですか。これももう日本でも出てますし、世界の車の流れを作ったってことなんですけど、今はエアロダイナミクスの方に開発の力点が移ってしまったんですね。まぁ、それを積極的にやってるのもアウディなんですけど」
「僕はこっちの方が好きだなぁ。このブリスターフェンダーなんてスパルタンだし、リアウィングも控えめでオシャレだし」
「そうそう、このブリスターフェンダーなんて、ランチア・デルタもBMWのM3なんかも同じパターンを造ったくらいなんですよ」
俺はそのブリスターフェンダーをしみじみと眺める。半月形に微妙に膨らんで飛び出したフェンダーは、写真で見るよりも膨らみが少ないような気がした。乗り込んでみるとレカロシートに換えてあり、メーター類もペダル類もハンドルもラリー仕様になっていた。俺はハンドルを握りながら、ラリードライバーになってぶっ飛んでいた。
クアトロがやって来たのは雨の日だった。朝からの曇り空で、昼前にはしとしと降り始め、俺のマンションの前に到着したときには白い車体を水滴で濡らして、とってもセクシーだった。オーナー自らが運転して届けてくれた。俺はオーナーをショールームに送り届けると、高速道路にノーズを向けた。
雨は本降りになっていたが、俺にはそれがうれしかった。クアトロの本領は雨の日と雪の日に発揮されるからだ。
高速道路を一五〇キロで巡行するフロントガラスには雨粒が張りつきながら流れて行き、バックミラーを覗くと、高い水柱が左右に上がって、まるで湖を疾駆するモーターボートのようだ、と俺は思った。
デフをロックするとますます挙動が安定するのが分かる。
それは、野生動物がしっかりと四肢で大地を噛んで疾走している様を連想させた。何のストレスも感じないままカーブにも突っ込んで行ける。二速から三速への立ち上がりも申し分ない。三速から四速にかけての吹け上がりもドラマチックだ。
しかも、四速からの加速が終わる前に、スピードメーターは一八〇キロをオーバーしてしまい、五速に入れるタイミングを失ってしまうほどのハイギヤードな設定になっている。
雨降りのブレーキングにはスリップがつきものなのだが、かなり急なブレーキングにも確実にノーズダウンして応えてくれる。俺は、初日からこの車に惚れ込んでしまった。
4-2
妻が旅行に出てから一週間は天国だった。
だが、二週間目からは困ったことが起きた。満足出来るレストランがないことに気づいたのだ。フランス料理にしてもイタリア料理にしてもドイツ料理にしても、味は言うに及ばずワインの品揃え、テーブルセッティング、サービスに至るまで家で食っていた方がましだと思えてきたのだ。
そして、気がついた。妻は料理に完璧を求めていたのだと。
そして、もう一つ。和食は一度も食ったことがなかったと。俺は、割烹通いを始めた。だが、玉石混淆の世界に足を踏み入れた感は否めなかった。味と値段のバランスがこれほどバラバラな世界もなかった。高ければ旨いはずとの思い込みはいつもはぐらかされた。友人たちの紹介もあてにならなかった。十軒行ってみて一軒ましな店に当たるというくらいだった。それでも、和食に飢えていたのだろう。俺は懲りずにうろうろと店探しに精を出していた。
そんなある日、俺は訪ねて来た友人を連れて事務所と目と鼻の先にある飯屋に入った。確か、トンカツ定食を二人で食ったと思う。長い間同じ場所で事務所をやっていたのに、俺は一度もその店で昼飯を食ったことがなかったのだ。その店は女ばかりの四人でやっていた。俺はそのとき、ビールを注文したのだが、カウンターの中に入っている女が、
「ビールはお昼には出さないの。ビールが飲みたかったら夜来てね」
と言った。俺は、夜もやっている店には見えなかったので、
「ここ、夜もやってるの?」
と聞き返した。どうもこれがカチンと来たらしくて、その女は
「この店は割烹料理の店なのよ」
と言った。俺はそんなことはまったく知らなかったので、
「いつからやってるんですか?」
と聞いた。女はムッとなって、
「もう、今年で二十年になります」
と言った。俺が事務所を開いてから十年だから、その十年前からあったということになる。俺はまた、
「何代目ですか?」と聞いた。
女は「最初から私がやってました」と言った。
俺はそのとき、初めて女の顔をちゃんと見たのだが、「割烹・二十年」とその女の顔とはまったくバランスが取れていないことに気づいた。あまりにもバタ臭い顔で、しかも三十五、六にしか見えなかったからだ。
俺は、その店に通い始めた。昼飯を食って夕方にはまた、昼に座っていた席に座っていた。何しろこんなに近くに納得の出来る店があったのだから、俺はうれしかった。俺が通い出して二週間目に、二十周年記念日がやって来た。俺は軽い気持ちで花束を贈った。確かカサブランカだったと思う。翌日から女の態度が急に変わった。俺の昼飯のおかずが一品多くなったのだ。
三週間目になり、俺は馴染みの客にも溶け込んで行き、女からも話しかけてくるようになった。
「お一人なの?」
「うん、今は一人だ。子供は実家だし」
「お仕事は何なさってるの?」
「広告屋だよ」
「お近くなの?」
「近くもいいとこだよ。もっとも俺んとこは十年にしかならないけど」
そんな程度のことだったと思う。俺たちが話したのは。
俺は勘定を済ませると、いつものすぐ近くのバーに寄った。そのバーは以前から知っていたのだが、女の店に通うようになってからは必ず次に寄る店になっていた。日本酒の後の口直しにジンリッキーをいつも飲むことにしていたからだ。
予定通りだとすると、そろそろ妻が帰ってくる頃だった。俺は、その夜が最後のバチュラーライフの夜になるのではないかと思っていた。
バーは空いていたが、俺の知り合いはいなかった。俺はいつものようにジンリッキーを注文して飲んでいた。その店にしたら不思議なくらい静かな夜で、最後の夜にふさわしいなと思うと、ついグラスを重ねてしまった。マスターは元デザイナーをしていたこともあって、広告の話をしていたと思う。多分車の話とかもしていたと思う。そのときだった。カウンター越しに話し込んでいる俺の隣に女が腰を下ろしたのは。
「隣、空いてますか?」
「どうぞ」
俺は、隣も見ずにそう言った。カウンターには、俺しか座っていなかったからだ。
「こちらと同じものを」
女がそう言った。
「お久し振りですね、ママ」
マスターがそう言った。俺は隣を見た。
「待ち合わせですか」
マスターが言った。
「いいえ」
「いや」
俺と女とは同時にそう言っていた。女は割烹の女だった。ワンピースに着替えて、メイクをし直している。店にいるときは着物に割烹着だったので、一瞬分からなかったのだが、そのバタ臭い顔には見覚えがあった。
女は一杯だけ飲むと帰って行った。時計を見ると夜中に近かった。店を終わって片づけてから来たのだから、そんな時間になっていてもおかしくはないと思った。俺は女が帰って行ったのをきっかけに立ち上がり、勘定をした。勘定を終えて店を出ようとしたとき、電話が鳴った。マスターが俺の方を向いて受話器を軽く持ち上げて合図した。俺に電話だという。心当たりはなかった。
「お一人なんでしょ、よろしかったら私のところで飲みませんか」
電話の声はそう言った。さっきまで隣にいた女からだった。
第五章
5-1
妻は、一ヵ月経っても帰って来なかった。
俺は余り気にしなかった。一ヵ月というのはあくまでも予定にすぎないし、どうせオープンチケットを買っているはずだから、飛行機に乗り遅れるという心配もない。
ただ、一年以内には帰ってくることが分かっていても、それがいつなのか知りたかっただけなのだ。一人暮らしも慣れてくると不自由を感じなくなるもののようだった。俺にはクアトロという車があったし、素敵な女も見つかったところだったのだ。
いつものように夜中の二時を回ってから家にたどり着くと、電話が鳴っていた。
「はいはい、僕ですよ。今、家に着いたとこでーす」
「どこに行ってたのよ」
押し殺した声は妻だった。俺も声の調子を切り換えて、言った。
「やぁ、戻ったのか。遅かったじゃないか。今どこにいるんだ」
「まだオーストラリアなの。今、そっちは夜中の三時前でしょ。遅かったのね」
「ああ、ちょっとまた編集で遅くなったんだ」
「嘘」
「嘘ってどういう意味だ」
「そこに誰かいるんでしょ」
「誰もいるわけないだろ」
「いつも遅いの、知ってるのよ。子供に会いにも行ってないようだし」
「すまん、あれからずっと忙しかったんだ」
「お酒を飲むのにでしょ」
「で、どうだったんだ、モデルクラブの方は」
「もちろんバッチリ全部が協力的。一番いい子を送ってくれることになってるの」
「そうか、そりゃ凄いじゃないか」
「当然よ、そんなこと」
「で、いつ戻るんだ」
「気になる?もう少し考えたいことがあるから、そのうちね」
電話は切れた。俺は、明日は子供の顔でも見に行ってみるかと、ふと思った。確かに割烹通いを始めてからは、電話の一本もしていない。しかしそれはお互いさまで、実家からは何の連絡もなかったし、妻からの連絡にしても一ヵ月振りのことなのだ。
シャワーを浴びながら、俺はさっきの妻からの電話のことを少し考え、すぐに割烹の女のことを考えた。翌日はドライブに連れて行く約束をしていたからだ。女とは、まだ他愛のないことがとても楽しい時期にあったのだ。
妻からの電話があってから三日目、俺はとんでもないことが起こっていることに気づいた。社員たちの給料を払うために銀行に行ったのだが、預金が全部引き出されていた。誰がやったのかは自明のことだった。それにしても、たった一ヵ月の旅行に遣う金にしては金額が大きすぎた。そして、俺はしばらく通帳を眺めていて気づいた。その金額と俺が車を買うために遣った金額とが偶然にもピッタリ同じだということに。
俺は頭を巡らせた。それが単なる偶然なのかどうか。
しかし、もし偶然ではないとするならば、妻はその金額を知っていたことになる。妻は海外にいる。しかし、カードで引き出せば残高は分かる。それでピッタリと金額を一致させたのだろうか。それならば、何に遣ったのかをあのとき電話で聞けばすむ話だ。何もそんなことは言いもせずに電話を切ってしまったのは何故か。妻の方にこそ男がいるのではないか。もし、ファーストクラスの飛行機に乗り、三つ星レストランで毎晩食事をして、各国でショッピングをしたとしてもまだお釣りがくる。
そんな高価なものといえば、と考えて、俺はたった一つ思い当たるものがあった。
妊娠したと分かったときから妻が止めてしまったもの。
また、それを始めたに違いない。それしか考えられなかった。
5-2
一週間が経った。俺は、その日、ほとんど明け方に家に戻った。 車を車庫に入れるのが面倒なくらい俺は酔っていた。
どうせ昼前には事務所に行かなければならないという事情もあって、俺は車をマンションの前に駐車したままにしておいた。
昼前、車に乗り込もうとして、ドアに引っ掻き傷があるのに気づいた。良く見ると、それはドアだけではなく、フロントのブリスターフェンダーにもリアにもついていた。反対側に回ってみるとそちらにも同じような傷がある。
しかも、三周もしている。
俺は、心臓の鼓動が速くなり、こめかみの辺りの血管が脈打っているのを感じた。ご丁寧ないたずらをする奴もいたものだ。あの時間から昼前までの間といえば六時間前後。明るいときにはやらないだろうから、夜が明ける前までということになると、二時間あるかないか。しかも、その時間にこの辺りを通る人間といえば、新聞配達、牛乳屋、犬の散歩くらいなものだ。犯人を特定することは難しくないはずだ。
俺は事務所に出る前に、所轄の警察に被害届を出しに行った。俺が、犯人を特定してくれるよう頼んでいるのに、その担当は、俺の車を何周もして傷の状態を克明に調書に記入しながら、
「これ、いたずらじゃないですよ。恨みですよ」
と言った。だが、俺には、まったく思い当たる節がなかった。
その夜、俺はいつものように夜中の二時すぎに家に着いた。車を車庫に入れ、エレベーターで五階まで上がり、ドアを開けて家に入った。
その途端、いやな臭いが鼻をついた。ドアの前に洋服が積み上げてあり、くすぶってまだ煙を上げている。廊下を通り、ダイニングルームのドアを開け、明かりを点けるために左側の壁に手を延ばした。
そのとき、いきなり俺は足元の床が消え去ったような錯覚にとらわれた。俺は咄嗟に右手を出し、体を支えようとした。そこにはサザビーの丸テーブルがあったのだが、右手はその縁をかすっただけだった。
次に来たものは、後頭部を丸テーブルの縁でしたたか打った感触だった。丸テーブルはそのはずみで俺の方に倒れかかって来て、体を支えようとしていた右手の上にしたたかな痛みを残した。
俺は、テーブルを押しやって右手を抜き取ると、前屈みになって両手で体を支え、起き上がろうとした。
床がズルッと滑る感触が両足に伝わって来た。
酸っぱい臭いが鼻をついた。俺は、滑る床に注意しながら何とか起き上がると壁のスイッチを入れた。
床中が真っ赤に染まっていた。酸っぱい臭いは部屋中に満ち、俺の口の両側の唾液腺からは大量の唾液がにじみ出て来た。俺は、手についていた赤い液体を鼻先まで持って行った。
それは、トマトケチャップだった。おまけに大量の油とソースまでぶちまけてある。
壁を見ると、トマトケチャップで、FUCK YOU!となぐり書きがしてあった。そのかすれ具合が血糊を連想させて、俺はもう少しでもどすところだった。
俺は滑らないように足元に注意しながら窓際までたどり着き、窓を大きく開け放った。反対側のベランダに通じるガラス戸も開け放った。部屋に空気を通そうと思ったのだ。そのとき電話が鳴った。
「お帰りなさい。大丈夫?」
「ああ、君か。大変なんだ今」
「床のお掃除で?」
「何、君なのかやったのは!」
「アハハハハハハハハ、何言ってんのよ!にぶいわねぇ!」
「車をやったのも君か!」
「車?何のことそれ。洋服は全部私が買ったんだから、処分しました!」
「事務所の金、どうしたんだ!」
「白い車のお返しよ。半分は私のものでしょ。私、役員なんだから」
「何に遣ったんだ!社員の給料だぞ、あれは」
「貴方が女に遣うからでしょ」
「いつ帰ったんだ!」
「二週間前から戻ってるわよ。ずいぶんご執心なのね、飯屋の女に」
「何のことだ」
「知らないと思ってるの?今日も女のマンションから戻ったんでしょ、どうせ」
「仕事だ。スタジオから戻ったところだ」
「嘘。私、毎晩マンションの前で待ってたのよ。貴方はいつも同じ時間に帰ってくるの知ってるんだから。女の店が終わって一緒にマンションに行って、寝かしつけて帰って来るんでしょ」
「仕事だって言ってるだろ」
「私、もうそこには戻りませんから。じゃ」
電話は切れてしまった。どこから電話して来たのだろう。俺は、窓から外の電話ボックスを窺った。人影はなかった。
俺は床の掃除に取りかかった。酸っぱい臭いにむせながら、まずモップで拭い、雑巾で拭い、新聞紙で拭い、それでも足りないので、Tシャツを取り出して拭った。
次に表面のヌルヌルを取るために液体洗剤を床全体に振りかけ、シンクで洗った雑巾とTシャツで何度も拭いた。
臭いは薄らぎ、ヌルヌルもやっと取れて来た。時計を見ると、朝四時に近かった。二時間近くも俺は床掃除をしていたことになる。
俺は、翌日のスケジュールを思い出した。一週間のロケ撮影の予定が入っていた。朝、八時に集合をかけてあった。
俺は、バッグを取り出し簡単に荷造りを済ませた。そして、シャワーを浴び、少しでも寝ておかなければと、寝室に入りベッドにもぐり込んだ。そのとき、ひやりとした物が首に触れた。半身になってスタンドライトを点けて見ると、それは刺し身用の柳刃だった。枕の下に刃を上にして置いてあった。
本気だな、と俺は思った。そう言えば、女が
「店に最近無言電話が頻繁にかかって来る」
と言っていたことを思い出した。
5-3
突然非常ベルが鳴り渡った。
俺は飛び起き、ドアに向かった。ドアを開けると、妻が立っていた。
落ち窪んだ眼窩には隈を作り、異様にやせ細っている。首から下げたシャネルのブローチの端が欠けている。スプリンクラーから水が出始めた。廊下には煙が充満し、玄関に置いてあった洋服が燃え上がっている。
妻がまた火をつけたのだ。俺は妻を押し退け風呂場に駆け込むと洗面器に水を汲んで洋服にかけ、足で踏みつけて火を消した。天井に黒い煤がついただけで大したことはない。俺は玄関のドアを開けて外に出ると、非常ベルのストップボタンを押した。
ウールの燃えた嫌な臭いが残ったが、静寂が戻って来た。
気がつくと妻がいない。ダイニングルームにもいない。寝室に入って行くと、ベッドの上で柳刃を手首に当てて、こっちを睨んでいる。
「来ないで!来たら切って死ぬから!」
「どういうことなんだ、一体!」
「さっき、貴方の彼女、刺して来たわ」
「何!」
「あの人、今、病院よ」
「なぜそんなことをしたんだ!」
「貴方のせいよ、全部。どうして私に考える時間をくれなかったの」
「あげたじゃないか。一ヵ月も考える時間があったんじゃないのか」
「最初の一週間だけ。後は貴方のことばかり。相談しようと思って電話してもいつも留守だし。事務所の近くのバーに電話したら、貴方が割烹の女と来てたって」
「あいつか」
「それからは打ち合わせも上の空。予定組んでたから行くことは行ったけど、何も具体化はしてないわ」
「君、またクスリやってるだろ」
「お酒じゃ酔えないもの」
俺はゆっくりと妻に近づき、柳刃を取り上げるとベッドの下に放り込んだ。そして、ベッドに腰かけた妻を立たせると背中に手を回して抱き寄せた。あばらが浮いているのが洋服の上から触っただけでも分かる。妻は俺の肩に顎を乗せながら耳元で囁いた。
「抱いてよ。久し振りなんだから」
俺は、乱暴に妻の洋服を脱がせると、ベッドの上に寝かせた。飛び出した鎖骨の下に貧しい乳房が張りついている。腰骨が湾曲した線を浮き立たせ、恥骨の下に性器が突き出している。
「優しくしてよ。あの人にしたみたいに」
俺は妻に覆いかぶさると、唇を舐め、乳首を舐めた。妻の口は酸っぱい味がした。性器からもすえた匂いがしていた。俺は、妻の両脚の間に座り固く熱くなったものを握って妻の入口を上下し、ゆっくりと沈めて行った。誰か全く知らない他の女の中に入って行くような気がした。
俺はなぜかいく気にならなかった。このまま止めてしまいたいと思った。それを妻は敏感に感じ取ったのだろう。自分の中に出入りするものを右手で握り、
「これがあの人の中にも入ったのね」
と言った。俺は黙ったまま行為を続けていた。
「もういいわ!」
妻はそう言って俺の体から離れると、ベッドの下に手をやろうとする。俺は慌てて妻の手を押さえ、体ごと突き飛ばした。妻は不格好に性器を見せながらひっくり返った。
「貴方のそれ、ちょん切ってやるから!」
妻は起き上がってダイニングルームの方に走った。俺も後を追った。妻の手がキッチンの下についている戸の裏側から出刃包丁をつかみ出した。
「あんな女、どこがいいのよ!そのおちんちんが悪いのよ!ちょん切ってやる!」
「やめろ、おい、危ないだろ!」
妻は両手で出刃包丁を握り、刃を上にして突いて来る。俺は咄嗟に居間のドアを開け、中に逃げ込んだ。妻はそのまま突っ込んで来る。俺は身をかわしたが、足がもつれてソファの上に倒れ込んだ。
妻のハァハァという荒い息づかいが、電気の点いていない部屋の中で大きく聞こえる。妻が向き直って、俺の上に突っ込んで来る気配がした。両手で体を支え起き上がろうとしたとき、何かが俺の手に触れた。
俺はそれを引き寄せると、ガット面を水平にして振った。それはシュッと音をたてて空気を切ると、ゴクッという手応えで妻を受け止めた。妻の動きが止まった。
俺は部屋の電気を点けた。妻がソファの下に口を押さえてうずくまっている。出刃包丁が足元に転がっている。俺は、それをキッチンに持って行き、元のところにしまうと部屋に戻った。妻はまだうずくまったままだ。
「大丈夫か?」
妻は黙ってうなずく。口に当てた両手の指の間から血が漏れている。
「見せてみろ」
両手をゆっくりと開くと、白いものが二、三個こぼれ落ちた。唇が切れてぱっくりと傷口が開いている。俺は、タオルを持って来て妻に渡した。口の中に溜まっていた血で、タオルはすぐに真っ赤に染まった。
「すまん、君があんなことをするから」
「痛いわ。お医者さん、連れて行って」
「分かった。服、着ろよ」
俺は手早く洋服を身につけると、バッグを持って先にエレベーターに乗り、車庫へと向かった。夜明け前のひんやりとした空気の中、車の窓を開け、マンションの前で妻が出て来るのを待った。妻はタオルを口に当て、うつむきかげんでゆっくりとマンションから出て来ると、助手席に乗り込んだ。俺は車をスタートさせた。
「この車にもあの女を乗せたのね」
妻の方を向くと、また、出刃包丁をこっちに向けている。俺は急ブレーキを踏んで車を止め、その揺れで前のめりになった妻から包丁を奪うと首を絞めた。
「殺してよ。私なんかいない方がいいでしょ」
俺は、一瞬手の力を抜いた。その瞬間、妻が両手でつかみかかって来た。俺は妻を突き飛ばし、ドアを開けて外に出ると、助手席のドアを開けて妻を引きずり出した。妻は、左脚を車内に残したまま道路に倒れ込んだ。
俺は、その脚目がけて力任せにドアを閉めた。






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